「土佐日記」の謎

仮名で日記を書いた最初の男?

 紀貫之と言えば、古今和歌集仮名序と共に、『土佐日記』が有名ですね。

「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。」

男が書くという日記というものを、女の私も書いてみようと思うって言ってるのですけれど・・・。

 何故、男である貫之が、自分を女という事にしなければならなかったのか・・・?

 これについては、学校などではこう習います。

「当時(平安時代初期)、日記と言えば、公的立場の男が、政務や行事の記録を漢文で記したもの。個人的な心情を何の制約もなく日本語で表現できる『ひらがな』を使用するには、女という事にしなければならなかった。なぜなら、ひらがなで日記を書く事は、とても一人前の男のする事とは思われなかったからだ。」

うーん、納得できます?

 平安時代には女性の文学作品が多数生まれましたが、どれも土佐日記よりずいぶん後なのです。『枕草子』や『和泉式部日記』『源氏物語』などは60~70年ほど後です。(『蜻蛉(カゲロウ)日記』で40年位後)

 つまり、貫之がとして日記ひらがなで書かなければ、この後の女流文学はあんなにも花開いただろうか・・・、先駆けになったというより、最初の突破口を開いたとは言えないだろうかという事です。

 


土佐の話じゃないのに、何故か「土佐日記」

 

“紀貫之”覚書…《土佐日記の謎》その2

2013-05-03 15:49:42

テーマ:詩・俳句・短歌

 土佐日記・・・というからには、土佐に滞在中の事を日記に書いていると思いませんか?

これが、違うのですよ~。

 知っている人は知っている事ですが(笑)、貫之が、土佐の任期を終えて、南国市の舘を出発してから、京の自邸に着くまでの、55日間の旅日記なのです。1日も省かずに書き綴られた紀行文で、中に57首もの和歌も詠み込まれています。

 普通なら、タイトルを『土佐日記』にはしないと思うのですよね。特に、貫之は言葉にとことんこだわった(言葉を大事にした)人だと思うので、土佐での生活ぶりを綴ったかのように見える、このタイトルは・・・謎です(汗)。

 内容を見ると、土佐の舘を出る時の送別の様子、船内での様子(海賊や荒波への不安)や途中立ち寄った港の美しい自然などを経て、京の自邸に着いた時の感慨など、多岐にわたるのですが、中心となっているのは、『土佐滞在中に亡くした娘をしのぶ心情』なのです。

 日記の終わりの辺りから抜き出してみます。


「生まれしも 帰らぬものをわが宿に 小松のあるを見るが悲しさ」

「見し人の 松の千年に見ましかば 遠く悲しき 別れせましや」

「忘れ難く、口惜しきこと多かれど、え尽くさず(書き尽くすことなど出来ない)。」

 


土佐に赴任中、京では何があったのか?

 私にとって、土佐日記の最大の謎は、何故あのような高齢で土佐の任務に就いたのか・・・です。

 紀貫之と言えば、当時の代表的歌人であり、学者でもあり、古今和歌集の編集代表者であった人物です。それが何故、御書所預(ゴショドコロアズカリ)という役から一変して、土佐守(トサノカミ)なのでしょうか。しかも65~66歳という年齢で。今と違って船旅もきつかったと思われます。

 4~5年の任期でしたが、それにしても・・・と不思議に思います。

土佐日記(935年2月16日付け旧暦)によると、京の家に着いたのは夜更けでしたが、月が明るくて家の様子はよく見えたそうです。人から聞いていたよりも、言葉にできぬほど荒れ果てていたという事です。

「言ふかひなくぞ、こぼれ破れたる」とあります。

 凄いですね。土佐に行ってる間に、家がすっかり荒れ果てるとは・・・。考えにくい事です。紀貫之は貴族ですよ。それもかなり上位の。一族郎党誰も寄りつかなかったのでしょうか。

 色々と妄想が膨らみますが、謎は謎のまま、この辺で一旦、締めようと思います。他にも付随して小さな謎があるので、またいつか、まとまった時に続きを書ければ・・・と思います。

 

 

 


とまれかうまれ疾く破りてむ

男もすなる日記といふものを

女もしてみむとてするなり

 

これは、言わずと知れた『土佐日記』の冒頭部分である。

作者の紀貫之は、自分を女に仕立ててこの日記を書いたとされている。

 

この有名な冒頭部分に対して、あまり知られていない最後の部分は

とまれかうまれ疾く破りてむ(とまれこうまれとくやりてむ)

こういう一文で閉められている。

「とにもかくにも、(この日記を)速く破って(捨てて)しまおう」

と書いてあるのだ。

 

ここに疑問を感じる人はけっこういるようで、私もその一人なのだが

疑問を持つ人の多くは、なぜ日記を破ろうなどと思ったのか?

というところに引っかかりを感じているように見受けられる。

 

私自身も、そこに一つのひっかかりを感じはするのだが

それよりも、

「破ろうと言いながら、なぜ破らなかったのか?」

「ただのポーズだったのか?」

それとも・・・無理やりな感じで残されてしまったのか?

というところが非常に気になった。

 

なぜって?

それは・・・

・鎌倉時代までは明らかに貫之自筆のものが残っていたとされている点

・藤原定家、藤原為家らが、自筆本から写筆したとされている点

(定家は臨書までしている。ただ、為家(定家の息子)の方が原本通りに写したと言われている。)

 

なんといっても、平安時代は藤原氏の天下である。それだからこそ

平安初期の紀氏である貫之の立ち位置的に(政治的影響力ではなく、歌、文学としての影響力を強く持っていたと推察される)、何か言い知れぬ謎が『土佐日記』に隠されているのではないか・・・などと、妙な憶測が働いてしまったわけだ。

 

藤原定家と言えば歌道の宗家。その定家が紀貫之の日記を臨書するほどなのだから

その日記は定家的に大きな意味があったのだろうと言ってもよいだろう。

新古今和歌集の代表撰者であった定家は、古今和歌集の代表撰者である貫之のことを尊敬していたのだろうか。(貫之の『古今仮名序』は日本最古の歌論としても有名。)

なんかね、そう素直には取れない気もしている。

紀氏と藤原氏・・・だからね、やっぱり、ここは・・・。(と言葉を濁しておく)

 

いろいろと憶測も飛び交いながら、私としては

最後の一文は、貫之の「うまいところ」だったのだろうと思っている。

 

貫之は、土佐での任務を終えて任地を離れるとは言え、

帰路の途中も当然のことながら、仕事として日記をつけていただろう。

これは、そのころの常識として「漢文」で書かれていたはずである。

冒頭にある通り、当時の日記とは男が(仕事、公用で)書くものであった。

 

でも、貫之としては、そんな漢文の公的な日記(日誌ですね)より

得意の仮名(女手とも言われるが、歌を詠むときは男でも仮名で書くのが普通)で

心情や旅情を書き留めておきたかったのかもしれない。

もしかしたら、京に戻ってきた後に、漢文の日記を頼りに(日付はもちろんのこと、出来事を細かく記してあるはず)、ごくごく私的な文章を書きたくなったのかもしれない。(土佐の地で亡くした娘への想いとか)

女ということにしてあるのは、本気で女に見せかけるつもりというのでもなく(女性的ではない表現も多々見られる。騙すつもりならそんなマヌケなことはしないはず)

茶目っ気の一つだったかも知れない。

 

この日記が、間違いなく後の女流日記文学に大きく影響したはずだし

その辺のところ、案外貫之はわかっていてやったような気もしている。

 

なかなかに本音を言いにくい時代だった(どの時代にも同じような問題はあるが、平安の初期なんて、ほんと、紀氏にとっては大変な時代だったと思われる。)

 

駄洒落やジョーク、ユーモアのセンス抜群の貫之は、何食わぬ顔であちこちに時限爆弾を仕掛けていたかもしれないと思っている。

(「君が代」が現代日本の国歌となったのも、貫之の仕掛けがあったからだろう。この辺りの話は、また機会があれば書こうと思う。)

 

和歌(やまとうた)に関して、なにか膨大な知識を持っていたと思われる貫之の、曰くありげな(女になりすまして書くなどという、とんでもない発想の)日記を、後の世に藤原定家が大事にしたのも頷ける話である。

 

そして、最後の一文

「とまれかうまれ疾く破りてむ」・・・

こんなものは、はやく破り捨てなきゃなあ・・・と

書きつつ、きっと長い時代を超えて読まれることになるのも

貫之は予想していただろう。

 

全く、『土佐日記(古くは土左日記)』と言いながら、土佐から京に帰る旅の日記であって

土佐での赴任中の出来事を記しているわけではないあたり・・・

定家本の奥書によれば、貫之の自筆で『土左日記』の外題があったとされる。

要は、『土左日記』には、別のタイトルが元々あったかもしれないということになる。

(外題と内題は同じこともあれば違うこともある)

 

なんてことのない、教科書によく載っている『土佐日記』だが

よくよく考えると謎は多い。