二日の月

毎夜、月を眺めるものと、日々勉学にいそしみ研鑽を高める者と

どちらに法を授けるか・・・

という(感じの)問いを見たことがあります。

 

答えは、「毎夜、月を眺める者」なのですが

この命題がどこで出されたのかを 実は私は知りません。

というか、ずっと前にどこかの本で読んだのですが、すっかり忘れてしまい

その解説にあたる部分が、確かその本にも書かれていなかったなあという記憶しかありません。

なのに、今日、急にこの問いが思い出されてきたのです。

 

だから、今から書くことは、きちんとした解説ではなくて、単なる私の思いつきに過ぎないということを最初に記しておかなければなりません。すみません。

 

私が「月」を思うとき、そこには月だけでなく、太陽も地球も見えている気がするんです。

というのは、月の満ち欠けには、「太陽と地球と月」という三つのものの関係がそのまま現れていて、

毎夜、月を眺めている内に自然と感じられてくる「月の満ち欠けの意味」のようなものが

「太陽と地球と月」の関係と切っても切れない感じがしてくるのです。

毎日昇る太陽には、月の影も地球の影もありません(日食だけは別ですが)。

しかし、月の場合、その光は太陽を受けているものだし、満ち欠けは地球との関係で生まれているわけで・・・。月を見るだけで、そこに「太陽」と「地球」をも見ることになるような気がします。

まるで、月は「神、聖霊、人間」の三位一体で言う「聖霊」に相当する位置にあるかのようです。


最初の問いに戻りますが

「毎夜、月を眺める者」と、「日々勉学にいそしみ、研鑽を積む者」を同列に並べて比較してはいけないのだなあと思います。

「日々勉学にいそしみ、研鑽を積む者」とは、地上的な知識や地位などを獲得しようとする者であり

「毎夜、月を眺める者」とは、太陽、月、地球の関係性を「月」に見る者・・・つまり、地上的な欲望の枠から出ようとする者のことなのではないかと思うのです。

 

だから、ここで言う「授かる法」というのも、地上的なものではないのでしょう。

地上的な意味での幸せは、欲望を満たした結果得られる、つかの間の「幸せ」で、

枠をはずしたところにある「幸せ」には、永遠に届かないものでしょう。

夜、月を眺めるときの心情は、静かで落ち着いていて、穏やかで、澄み切っていて・・

もちろん、雨や雲の多い夜には見えませんし、朔の夜にも見ることはできません。

今日のような二日の月や三日月は、早く沈むため、うっかり見逃してしまいますし

二十日を過ぎた有明の月は、早く寝床に就くと月が出る頃には夢の中です。

 

「月を見ること」も、厳しい掟のような日課にしてしまうと、せっかくの「月」も、地上的な欲望に絡め取られてしまうでしょうから、適当、いい加減ぐらいが良いかもしれません。

 

今日は、長月二日。

月はとうに、太陽を追って沈んでしまっています。

鋭い、剣の先のような「二日の月」は、真冬が似合うような、そんな感じが、今、ふとしました。