雨に咲く花

(その1)

2013-06-13 12:11:39

 大学を出たものの、就職口が見つからず、加奈子は手持ち無沙汰で4月から5月の二ヶ月をぼんやりと過ごした。就職口が見つからなかったというのは、加奈子に対して少々失礼な言い方かもしれない。加奈子は、都心の大学に在学中、有名ではないが、それなりの収益を上げている小さな出版社に就職が決まっていたのだ。しかし、田舎の両親の強い(強引としか加奈子には思えなかったが)勧めで、卒業後は実家に戻ることになった。父親が探してきた仕事先は、話を聞く前に断った。当然のように喧嘩になったが、母親はやきもきしながらも、そんな父娘の様子を遠目に伺うだけで、特に口を挿し挟むこともなかった。

 実家での両親との生活は、とりあえず、寝るところと食べることには困らない、ある意味贅沢な環境ではあったが、加奈子にとって、それは、ただ空虚な時間に自分を捧げる無意味な生活にしか思えなかった。

 6月のある雨の日のことだった。母方の伯母が加奈子の家に立ち寄った。

「加奈ちゃん、就職、まだなんだって?」

ああ、また嫌な話になった・・・。加奈子はうんざりする気持ちを隠しきれず、思わずため息をついてしまった。きっと母親から頼まれてたんだ。仕事の話に違いない。

「あのね、もし、加奈ちゃんさえよければなんだけど・・・」伯母はふんわりと笑った。

そうそう、この伯母はいつも控えめで優しいものの言い方をする。だから、面白くなさそうな話でもいつも最後まで聞いてしまうのだ。

「私の知り合いの息子さんでね」

ほら来た。今度は結婚話か?

「中学3年生なんだけど」

何?中学生!

「来年、高校受験を控えててね、というか、それはまあいいんだけど、体調くずして入院してるんだって。1ヶ月は最低かかるらしくって、その間の勉強が遅れるの、お母さんがとっても心配してるのよ。」

つまり、こういうことだった。

 伯母の知り合いの息子、中学3年の修一君は、受験を控えて入院中。ただ重体というわけではなく、様子をみながらの療養生活がしばらく続くらしい。その間の勉強をみてやってもらえないか・・・という話だった。病院の面会時間内に1時間程度、ベッド脇で勉強を教えるアルバイト。家庭教師の病院版か。

 加奈子は少し考えたが、快く了解することにした。家と買い物だけの毎日に退屈もしていたし、かと言って親の勧める仕事は意地でも撥ね付けたいし、話によると、そんなに長く続く仕事でもなさそうだ。中学生に勉強を教えるのは、学生時代に家庭教師のアルバイト経験もある加奈子にとって、さほど難しいことではないと思えた。

 その日の夜、伯母の知り合いから電話があり、話はとんとんと決まった。翌日から早速修一が入院する病院へと、加奈子はせっせと通うことになった。

 

(その2)

2013-06-13 16:09:34

 その病院は、町から少し離れた海沿いにある敷地の広い総合病院だった。小児病棟はなく、中学生の修一も、内科病棟の4人部屋で、大人たちと一緒に入院している。

「こんにちは~。」

あまり元気良く行くのもどうかと思い、加奈子は少し控えめに挨拶した。

「こんちは。」

ベッドから身を起こした修一は、加奈子にはもう高校生のように見えた。ほっそりした体に色白の顔。きゃしゃだが、表情が大人びている。目は切れ長で、鋭い瞳で加奈子を見た。パジャマではなく、白いTシャツを着ている。ちょっと、恐いかも・・・加奈子の修一への第一印象はそれだった。

 しかし、鋭い目つきはすぐに柔らかくなり、修一はニッコリ微笑んだ。

「母さんから聞いてるよ。家庭教師・・・じゃなくって、病院教師の先生だろ?」

加奈子は驚いて口をあんぐり開けた。修一の喋り方がとても意外だったからだ。子供とは言え、初対面の人に対する言葉づかいとは思えなかったし、その口調とは裏腹にあまりにもあっけらかんとした笑顔だったからだ。

「い、いや、先生っていうのは、ちょっと・・・。」

「じゃあ、何て呼べばいい?俺は修一。ああ、知ってるか。俺、堅苦しいのはヤだから、先生もそのつもりで気楽にしてくれよ。」

えぇ~!なんて中学生なの~!でも、これくらいの方がお堅いよりやり易いかも・・・。加奈子はすっかり緊張が解けて、ベッド脇の丸椅子に腰掛けた。

「私の名前は加奈子、うーんと、加奈ちゃんって呼んで。」

「わかった、加奈ちゃんね。了解。」

修一は軽く右手で敬礼のしぐさをした。

 

 かくして、加奈子の病院教師の日々が始まった。同室の患者の迷惑にならないよう、最初は相当気を遣っていた加奈子だったが、案外、同室の人たちも、長い入院生活に飽きているのか、加奈子の訪問を快く受け入れてくれているようだった。看護師たちも、修一の母親から事情を聞いているらしく、病室で加奈子と勉強する修一の姿を見ると、

「修一君、がんばってるね。」

と、笑顔で声をかけてくれた。

 1週間も通う内、同じ病院内に長期入院の中学生がもう一人いることがわかった。光雄という名前の男の子で、修一と同じ内科病棟の、二つ隣の部屋に入院している。生まれつき心臓が悪く、何度か手術をしたのだそうだが、この病院の心臓手術の腕は評判がいいらしく、わざわざ関西方面から来ているのだそうだ。今、検査中で、その結果次第で手術をするかどうかが決まるという話だった。光雄は、小柄で丸顔の童顔。とても、修一と同じ中3には見えない。温和な性格らしく、柔らかな関西弁が彼の優しい人柄を現しているようだった。二人は出会ってすぐに仲良くなったようで、まるで昔からの友達みたいに「修ちゃん」「光雄」と呼び合っていた。多分に、修一のあけすけな性格のせいだろうが。

 

 ある土曜の午後のこと、たまたま同室の入院患者がみな外泊で、部屋には修一と加奈子の二人だけになったことがある。修一は、それまで開いていた数学の教科書を、不意にパタと閉じ、大きく伸びをして言った。

「加奈ちゃん、俺の病気のこと、母さんから聞いてる?」

「うん、腎臓が良くないって・・・」

「それだけ?」

「え?どういう意味?」

「やっぱ、聞いてないんだ。」

・・・・・。

「俺さ、血友病なんだ。簡単に言っちゃうと、切れたら血が止まんないってやつ。おまけに、頭の中に爆弾抱えててさ。腫瘍があるんだ。血管の流れが悪くなって、もしちょっとでも切れちゃうことがあったら・・・、御陀仏かな。あ、腎臓が良くないのも本当だけどな。」

黙っている加奈子の目を、一度だけ覗き込むように見たあと、修一は部屋の中空の何もないところを見つめて、また話し始めた。

「小さい頃からさ、家では俺のこと、腫れ物でも触るみたいにして、大事に大事に育てられたっていうかさ。学校は行ってたけど、体育はできないし、遠足も行ったことないし、しょっちゅう休むし。学校ってところは退屈でさ、家にいるともっと退屈なんだけど、勉強も面倒くさいし、おふくろはあの通り一生懸命だから、病院にまで家庭教師つけるって言うし・・・。でも、加奈ちゃんで良かったよ。俺、あんまり勉強得意じゃないから、厳しい先生だったら追い返してやろうと思ってたんだ。あのさ、昨日の夜、光雄と話をしたんだ。光雄、明日退院するんだって。どうやら、手術はしないらしくて。昨日から光雄のおふくろが来てんだけど、親が言うには「手術をしなくていい」って話なんだけど、光雄はそうじゃないと思ってる。多分自分はそう長くないんじゃないかって、光雄はそう俺に言ってた。手術しても無駄なんだろうって。あいつ、いいヤツなんだ。ホント、いいヤツなんだ。俺もたいがい病気には困らせられたけど、あいつは俺なんかよりずっと病気にイジワルされてるぜ。小学校もろくに行ってないんだってさ。なあ、加奈ちゃん、あいつに勉強教えてやってくんないかな。算数でも国語でも何でもいいからさ。光雄が夕べ俺に言ってたんだ。俺みたいに誰か勉強教えてくれへんかなあって。関西弁で。あいつ、今まで、勉強どころじゃなかったんだよ。」

修一は、そこで一息ついて、加奈子に視線を移した。

 

(その3)

2013-06-13 17:39:09

 加奈子が快諾すると、修一はキャッホーと両手を挙げ、加奈子にハイタッチを求めてきた。大人みたいなことを言う修一だが、そういうところはまだあどけなさが残っている。修一はすぐにベッドを降り、加奈子を誘って光雄の病室へと急いだ。

 

 「みつおー。加奈ちゃんが勉強しようってさ。あ、おばさん、こんにちは。」

光雄の母親が大きな袋に何かを詰めている最中だった。おそらく退院の準備だ。驚いた様子で母親が加奈子を見た。

「修ちゃん・・・。」

ベッドに横たわってマンガ雑誌を見ていた光雄は、嬉しそうに起き上がって、いそいで母親に加奈子を紹介した。本当なら今日にでも退院するところだったが、父親の仕事の都合で明日退院になったこと、自分は車の運転ができないこと、家がここからはとても遠いことなどを、母親はゆったりとした関西弁で加奈子に話した。

「修一君の先生なんですってね。光雄から聞いてます。光雄も勉強がしたいなんて、夕べ私に言い出しましてなあ。いやあ、この子、あんまり学校へも行ってへんかったさかいに、家に帰ったら家庭教師の先生でも探そうかって、この子と言うてましたんやわ。ご迷惑やなかったら、今日、ちょっとだけ、修一君と一緒に勉強教えてもろてかまいませんやろか。」

丸顔で、まんまるの目が光雄君とよく似ている・・・と加奈子は思った。きっと、光雄の温和な性格も母親似なのだろう。1時間だけという約束で、光雄は修一の病室で一緒に勉強をすることになった。

 

 修一はなんだか張り切っていた。光雄が、分数の計算が分からないと言うと、加奈子をそっちのけで自分が先生のように教え始めた。

「2分の1と3分の1って、どないして、たすのん?」

「実にもっともな質問だ。」

などと、いつもの修一には全く似合わない調子の会話に、加奈子は内心微笑んだ。

 

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 翌日、光雄は退院していった。加奈子も、その時間に合わせて病院に来た。修一と一緒に、車で帰っていく光雄を見送るためだ。梅雨の晴れ間の、天気のよい日曜だった。植え込みのアジサイが揺れている。

「行っちゃったな。」

修一は細い目をさらに細めてつぶやいた。

「さあ、勉強しようか。」

「おう!」

と、気を取り直すように修一は元気良く答えた。

 

 しかし、病室に戻ると、修一は難しい顔をして、ベッドに腰掛けて言った。

「加奈ちゃん、俺、光雄にとって、なんか意味のある人間だったかな?」

「そりゃあ、もちろんあったと思うわよ。なんで?」

「あのさあ、俺、小さい頃から、ずっと考えてたことがあってさ、俺って何なのかなって、どうも他の連中と違うみたいでさ、こんな風に言葉にして考え始めたのは最近だけど、言葉にはならなくても、ずーっとおんなじ事をずーっと考えてたんだよ。俺の人生って意味あんのかなって。俺の病気は生まれつきで、そのことでおふくろは自分を責めるんだ。俺に謝るんだぜ。よしてくれって感じ。全然好きなように生きれなくって、おふくろやまわりに迷惑かけてる気もして・・・。でもさ、光雄に会って、なんか感じたんだ。俺にとっての俺の人生なんてどうでもいいかなってさ。誰かにとって、俺がちょっとでも意味の有る存在になれたら、それでいいかなって。よくわかんないけど、初めてかな、自分以外の人間のこと考えたのは。」

修一は、それだけ言うと、

「さ、勉強しようぜ。」

と、数学の教科書を広げた。

 

(その4)

2013-06-14 17:25:13

 加奈子は、修一に勉強を教えている内に、何かとんでもない恐怖が自分を待ち受けている気がして怖くなることがあった。それがどんな恐怖なのか、全く分からない。一方で、アルバイトとは言え、やりがいのある仕事をしているという実感も持ち始めていた。父親が勧めてくる仕事を断って良かったと、つくづく思う。あっと言う間に一ヶ月が過ぎ、季節は夏本番へと移っていた。照りつける太陽に大きく顔を向けて、ひまわりがたくさん咲いている。加奈子は、自分の背丈ほどもあるひまわりが立ち並ぶその横を抜け、病院の玄関を入った。

 その日は、病院で修一に勉強を教える最後の日だった。明日には、修一は退院する。

すぐに夏休みだから、今度は自宅で勉強を教えてもらえないか、と修一の母親は言った。引き続き、家庭教師をしてもらいたいと。

 加奈子にとっては、嬉しい話だった。まだまだ修一に教えておきたい事がある。数学は一次関数がやっと分かるようになったばかりなのだ。二次関数も、確率も、図形の証明問題もこれからだった。国語は、修一が本好きでもあり、特に教える必要はなさそうに思えた。加奈子の知らない本もたくさん読んでいて、場合によっては、加奈子が驚く程の深い洞察を披露することもあったのだ(ダンテの『神曲』やニーチェの『ツラトゥストラはかく語りき』なんて読んでいる中学生が今時いるだろうか?)。

 「この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ・・・加奈ちゃん、知ってるかい?」

いきなり、こんな質問されることもあった。出版社に勤めようとしただけあって、加奈子はその文句は知っていた。

「神曲の『地獄編』ね。」

「へえ~、よく知ってるんだな。普通、大人は知らないだろ。」

「普通、子供の方がもっと知らないでしょ。」

「それもそうだな。で、どう思う?」

どう思う?と聞かれても、加奈子は何も答えられない。言葉を知っているだけで、それについて何かを考えたことなんて一度もない。

「俺はあんなの、詐欺みたいなもんだと思ってる。『地獄』や『煉獄』や『天国』って言葉で、人間を縛ってるんだ。断言するぜ。ダンテってのは、あれだな、キリスト教にすっかり頭をやられちまってる。唯一絶対の神たる一者っていうのは、俺に言わせれば『金』のことだ。かね・・・マネーさ。みんな、ひれ伏してるじゃないか。ま、ダンテは現代の人間じゃないけど、たった一つの神にひれ伏すって辺りは、相手が神だろうが、金だろうが一緒じゃね?天国が神のいるところなら、金のあるところが天国さ。地獄は、金のない者たちの住むところ。煉獄は金がなくて、欲しい欲しいってヨダレたらしてるところ。バッカバカしい。地獄の門にはこう書かれてるんだぜ。『この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ。』地獄も煉獄も天国も、どこへ行ったって同じ神の支配下にあるのにさ。生きてる今が、そんなところじゃないか。俺は死んだら、そこから抜け出すんだ。」

 俺は死んだら、そこから抜け出すんだ・・・その言葉が、妙に加奈子の脳裏に焼き付いた。修一は死を予感しているのだろうか。誰もがいつかは死ぬとは言え、そんなことを考えるのは中学生には似つかわしくない。だが、修一なら、それがなんとも言えず似合っている・・・ふと、そう感じている自分に気がつき、加奈子は激しく頭を振った。ダメだ。そんなこと、思っちゃいけない。時折加奈子を襲う恐怖が、どうやらそこら辺に根っこがありそうだ・・・とは、加奈子自身、まだ気づいてはいなかった。

 

(その5)

2013-06-14 21:36:57

 「今日も数学?」

加奈子が、ベッド脇に無造作に置いてある数学の教科書を手に取るのを見て、修一は言った。

「今日は、最後なんだからさ、違うのしようぜ。」

「最後って、退院しても、家庭教師は続けるってお母さんが言ってたでしょ。」

「この病室では最後だからさあ、気持ちよく終わりたいんだけどな。」

「何言ってるの。修一君は、国語も英語もよくできるじゃない。私が教えられるの、数学しかないもの。」

「俺はマリリンモンローなんだよな。」

そう言って、修一はクスっと笑った。

「何?マリリンモンローって。」

「知らない?マリリンモンローのスリーサイズだってば。90、60、90・・・」

キョトンとする加奈子を見て、修一はまたクスっと笑った。

「どっかの偉い大学教授が言ってたんだ。長さと重さは、単位が違うから足したり引いたりできないが、同じ長さどうし、単位が一緒なら足したり引いたりできる。平均値も出せる。だからと言って、その計算に意味があるかどうかは別問題だ。」

・・・・?

「まだ、わからないかい?マリリンモンローのスリーサイズは90、60、90で、全部足したら240cmだ。平均は80cm。でもって、その教授の奥さんは、80、80、80の平均80cm。平均がマリリンモンローと同じだからって、それ、全然同じじゃないだろって。そんで、その教授、いい事言うんだよ。学校の先生たちは、生徒のテストで英国数の平均点がなんだかんだって言うけど、それにどんな意味があるのかってさ。俺、数学できないけど、腰のくびれだと思えばいいよな。くびれのないのもかわいいかもしんないけど。」

「なあるほどね。って、感心してる場合じゃないでしょ。数学も、わかれば楽しいんだから。」

「あのさ、俺、前に加奈ちゃんに話した事あるけど、この世は、お金が神様になって全てを支配してるって言ったの、覚えてる?」

「う、うん。」

「子供の世界っていうかさ、学校の世界では、金の代わりにテストの点数が神様になっちゃってると思うんだよ。加奈ちゃんはさ、数学もわかれば楽しいって言うだろ?だから、俺、加奈ちゃんが教えてくれる数学なら、やる気も出るんだ。でも、学校の授業でやってる数学は全然ダメだ。先生が嫌いとか、そんなんじゃない。ここがテストに出ますよーとかって、聞くだけで、もう俺の心はどっかに消えちまう。みんな、目が輝くんだぜ。テストに出るところを教えてもらったら。・・・俺には全く理解できない。」

 加奈子は自分の中学時代を思い出し、修一から見れば理解できない部類の中学生だったことを恥ずかしく感じた。大学を卒業した今だから、修一の言うこともよくわかる。でも、中学生だった時の自分が、もし今の修一に会ったら、まるで話が噛み合わなかっただろう。難しい言葉で理屈ばかりこねる変な奴・・・と、修一を奇異な目で見たかもしれない。わかっていないのが自分の方だとも知らずに。

 結局その日は、40分もそんな修一の話で使ってしまい、2次関数は、式とグラフの関係について少し説明して、練習問題を一つ解いただけで終わった。

「じゃあ、今度は明後日ね。お家に行くから、待ってて。」

修一は軽く片手を上げて

「じゃ。」

と言った。

 

(その6)

2013-06-15 11:18:37

 病院から帰った加奈子は、さっき修一が書いてくれた自宅までの手書きの地図を、さっそく広げてみた。加奈子の家からは少し遠い。車で40分はかかりそうだった。隣町なのだが、山を一つ越えなくてはならない。運転免許は大学卒業後に帰省してから取ったため、運転歴はまだ浅い。道を間違えないように、何度も繰り返し地図を見ては、頭の中で道順をトレースした。

 翌日、修一から、無事退院したことを知らせるメールが加奈子の携帯に届いた。加奈子は、また修一の手書きの地図を広げ、道順の確認をした。

 そして、そのまた翌日の朝、加奈子の家の電話が鳴った。時計を見ると七時きっかり。なんだか嫌な予感がした。加奈子の母が電話に出た様子だ。ほどなく、母が加奈子を呼ぶ声がした。電話の声は修一の母親だった。

「加奈子さん、あの、修一が・・・」

後はしばらく、嗚咽をこらえる微かな息の音が漏れ聞こえるだけだ。

「修一君が、修一君がどうかしたんですか?」

加奈子は思わず、受話器に向かって大声を張り上げた。喉に詰まった異物を少しずつ吐き出すように、電話線を伝って加奈子にもたらされた修一の訃報は、加奈子の体から芯棒をすっかり抜き取ってしまった。

 昨夜遅くに、修一は脳内出血を起こして倒れたらしい。、すぐに救急車で病院に搬送されたが、施す治療はなく、病院についてから、わずか30分で息を引き取ったと言う。すぐに加奈子に知らせたかったが、夜ということもあり、朝になるのを待ったのだと語った。ー加奈子さんには、あの子、本当になついて、お姉さんのように慕っていましたから。遠いところですが、あの子に会いにきてやってくれますかー。母親は、決して取り乱してはいなかったが、加奈子の方から質問をするのはとても出来そうにない雰囲気があった。加奈子はただ相槌をうつのみだった。通夜と告別式の時間が決まったらまた連絡しますと言って電話は切れた。

 

 加奈子の頭の中は混乱していたが、やるべきことの一つ一つはクリアに浮かんできた。まず、喪服の用意だ。そして、お香典の袋。母親に喪服を借り、袖を通しながら、現実への対処は問題なくこなせることを頭で確認しつつも、肝心なこと、本当に大事なことが何なのかがさっぱりわからなくなっていることも自覚していた。そう、加奈子の目からは涙が出なかったのだ。哀しみの感情が、加奈子の中からすっぽりと抜け落ち、半身がどこかに消えてしまっているような感覚を加奈子は経験していた。

 

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 加奈子は喪服に身をつつみ、通夜の時間を待たずに車を走らせた。自分の運転で走る初めての山道。ところどころ道幅が狭くなり、対向車とすれ違う度に緊張が走る。とぎれとぎれのガードレールの下を、川は渦巻くように流れていた。長いトンネルを抜け、下りに差し掛かるあたりから、雨がポツリポツリとフロントガラスに水滴を落とし始めた。ワイパーがきしむ音。まるで梅雨が戻ったかのような静かな雨は、修一と初めて会った日のことを、否応なく加奈子に思い出させた。

 

(その7)

2013-06-15 14:19:21

 修一の家は、閑静な住宅街の一画にあった。洋風の作りで、玄関脇には、色とりどりの花が綺麗に咲いている。弔問客はまばらだった。通夜の時間にはまだかなり早かったから。加奈子はそこで初めて修一の父親に会った。××大学哲学科の準教授をしているらしい。修一と同じ細い髪質、色白で細身の長身だった。顔立ちは似ているとは思えなかったが、薄い茶色のまっすぐな髪が、どうしようなく加奈子に修一を思い起こさせた。そう言えば・・・と加奈子は思う。あの能弁、饒舌な修一が一度も父親のことを話題にしなかったのだ。男の子は、自分とよく似た父親をもった場合、複雑な感情を抱くものなのかもしれない。

 北枕で横たわる修一の顔にかけられた白い布を、母親がそっとめくってくれた。そこには、ついこの間まで色んな表情を見せた修一の顔が、ただ安らかに目を閉じているだけだった。加奈子は、そっと手を合わせ、母親と一緒にじっとその顔を見つめたまま、泣くことはしなかった。

 母親が、再び白い布を顔にかけ、加奈子の方を向いて言った。

「あの、加奈子さん、光雄君って覚えてます?」

「はい、関西から入院してた子ですよね。」

「ええ、実は、修一には黙ってたんですけど、退院してからしばらくして亡くなられたんです。光雄君のお母さんから連絡がありまして、入院中にはお世話になりましたって。とても仲良くしてましたから、互いに電話番号と住所を交換し合ってたみたいなんです。生まれつき心臓が弱くて、でも、死因は肝臓不全らしいんですの。手術もできなかったそうです。修一にしてもそうなんですが、外からはあんなに元気そうに、普通にみえましたけど、逝く時は突然来るのですね。苦しむ時間が少なかったのが、せめてもの救いかもしれません。」

 母親の言葉を聴き終える前に、加奈子の意識は真っ白な煙の中に、バラバラに分解して散らばり始めていた。その後のことは、加奈子はよく覚えていない。現実的な対応は、心と無関係に体が動き、口が動いて時間を進めていたが、その時間は、単なる空白と同じだった。

 

 加奈子に心らしきものが戻ってきたのは、その次の日、告別式が終わった直後だった。修一の遺体を納めた棺が運び出されようとした時、陶器の破れる音と同時に、修一の母親の悲痛な叫び声が加奈子の耳に突き刺さった。母親は棺にすがりついて何度も修一の名を呼んだ。父親が後ろからその肩を抱きかかえ、うなだれているのが見えた。加奈子は足早にその場を立ち去り、自分の車に戻った。バタンとドアを閉めると、それまで気づかなかった足の痛みが加奈子を襲い、痛みは足から徐々に体の上部へと範囲を拡大させ、喉のあたりで止まった。加奈子はハンドルに顔をうずめて、呟いた。

「私、泣いてもいいのかな。修一君、私に、泣く資格あるのかな。」

喉からまぶたへと熱いものがこみ上げてきて、加奈子はやっとそれが強い哀しみであることに気がついた。涙がドクドクと溢れ出て、修一の顔や声がその涙の中に浮かび上がってくる。

 病室の窓から二人で見たアジサイ。しとしとと降る雨に濡れるアジサイの花。

「アジサイは、雨と仲がいいんだよ。」

修一の声。

「植物っていうのは、だいたい雨と仲がいい。俺もそうだ。ギラギラするほどの太陽は、俺は苦手。太陽は、なくてはならないって、みんな思ってるだろうけど、まあ、確かにそうなんだけど、ギラギラはいただけない。」

「な、加奈ちゃん、こんな雨を慈雨って言うんだぜ。慈しみの雨さ。俺のもう一つの名前。ハハ、自分で勝手につけただけだけどさ。雨の日には、俺は一人で、よく慈雨と話すんだ。慈雨は俺の脳内妄想の産物だけど、なんでもよく知っててさ、色んなことを教えてくれる。加奈ちゃんもさ、慈雨に呼びかけてみろよ。返事があるかもしんないぜ。って、バカバカしいか、大人には・・・。」

加奈子の脳裏に、次々と修一の言葉が蘇る。

・・・ごめんね、修一君。私、何も分かってなかった。私、甘かった。何が?って、何もかも。何もかも、私は甘かった。私はあなたにとって、何か意味のある存在になれたの?私、泣いてもいいよね。ごめんね、修一君・・・。

 加奈子の涙には、修一と光雄の姿が映し出されては消え、幾度もそれが繰り返されていった。

 《完》