「死ぬ」と「死す」

「死ぬ」と「死す」が、和語と漢語由来の日本語の違いであることは一目瞭然だろう。

「食べる(食ふ)」と「食す」の違いと同様だ。

 

しかし、読みが訓と音で明らかに違う「食」に比べ

音訓共に「し」と発音する「死」は、概念自体に混同が見られるのではないかと思う。

 

そんなことから、ふと思いついた幾つかの事柄をいくらか覚書しておこうと思う。

 

 

 

「死ぬ」は万葉集にも記述が見られ、

漢文調の「死す」が文献に現れるより、ずっと古くから使われていたことがわかっている。

そのために、「死ぬ」が漢文の影響で生まれた「新しい」日本語ではないということははっきりと言える。

 

ただ、「しぬ」と同じ(よく似た)意味の漢語「死」が

たまたま同じ音(し)を含んでいたということだろう。(偶々ってスゴイ!)

 

しかし、ここで「し」という音が同じだったために「死ぬ」という字が当てられ

本来の「しぬ」が、漢語由来の「死」の概念と混同されるきっかけとなったと言えるかもしれない。

 

「死ぬ」は、古語ではナ行変格活用動詞(現代は五段活用)であり

もう一つのナ変動詞「去ぬ(往ぬ)」と極めて近い意味を含み持つことが窺われる。

(ナ変動詞には「しぬ」「いぬ」の二つしかなく、そもそも変格活用動詞はそれだけで重要かつ基礎的な意味を持つ和語だと察せられる。)

 

「いぬ」に「s」音がついた「しぬ」は、

 

 

(1)息がなくなる意のシイヌ(息去)の義[日本語源学=林甕臣]。    

   シイヌル(息逝)の義[松屋棟梁集]。 

(2)サリヌルの反[名語記]。 

(3)スギイヌル(過往)の義[名言通]。 

(4)シヲルル、シボム、シヒルの義と通じる[国語の語源とその分類=大島正健]。 

(5)シは〆領る、ヌは歇了る義[国語本義]。

 

とあり、「去ぬ」「往ぬ」との関連性が高いことがわかる。

 

また、活用語尾「ぬ」自体が、完了の機能を持つ助動詞「ぬ」と同音である。

 

「ぬ」という音の面白さ(興味深さ)は、他にもある。

「寝る」は、古語では基本形が「寝(ぬ)」であること、

「寝ぬ」と書いて「いぬ」と読むこと、などから

古語の「死ぬ」には、「去る」「往く」「逝く」「寝る」と深い関連性があると言えるだろう。

 

 

 

ここで、ちょっと話題を変える。

 

「生」と「死」は対義語であるが、同じように

「生きる」と「死ぬ」は対義語と言えるだろうか?

 

現代人の感覚で言えば、

「死ぬ」の対義語は「生まれる」だろう。

この世とあの世の境目を通過した時のことを指して、

「生まれる」あるいは「死ぬ」と言うのだから。

 

ならば、「生きる」の対義語は何か?

 

この世を生きることが「生」であり

あの世を生きることが「死」なのではないのか?

 

「死」という漢語が入ってくるまで、

日本では「死」の世界を「根の国」や「黄泉の国」と呼んだ。

 

そうだったのだ。

 

古来日本人にとって、「しぬ」とは「根の国に往く」ことであり

「寝ぬ(イヌ)」=「眠る」ことでもあったのだ。

 

大陸由来の「死」がそれに取って代わり、「根の国」は深く沈みこみ

「地獄」や「極楽」のイメージがそこに覆いかぶさった。

そのイメージを取っ払う必要が、まずあると思う。

 

「根」とは、その文字が示す通り、植物の根と同義である。

植物は、茎から上の部分(地上)と根の部分(地下)の両方があってこその一つの生命である。

根ごと土から引き抜けば、枯れる。

興味深いことに、「かる」とは、古語ではやはり「死ぬ」ことを意味する言葉なのだ。

「まかる」「みまかる」などに、その片鱗が窺える。

「枯れる」「枯らす」(→「ころす」への変遷)

 

現代、「死ぬ」は「根」とはまるで違うイメージを持つ言葉になってしまっている。

というより、「かる(刈る、狩る、枯れる)」の意味としてのみ、「死ぬ」を使っているということか。

 

「生」と「死」という対義語の関係を見るとき

《「生」を生きる》と、《「死」を生きる》という一対とは別に

     ↓            ↓

   茎から上         根

 

《「生」を生き、「死」を生きる》と、《どちらも生きない》という一対があり

       ↓                ↓

 茎から上と根の両方で一つの生命     枯れる             

 

この二つの対が、混同されてしまっている気がする。

 

前者《「生」を生き、「死」を生きる》こそが、本当の「生」なのかもしれない。

後者《どちらも生きない》が、「かる(枯る)」であり、《根も茎も死んでしまう》こと。

《根も茎も死ぬ》と《「死」を生きる》は全く違うものだ。

そこを混同してしまい、

現代では最も忌み嫌われ、懼れられるものとしての「死」が跋扈し

《「死」を生きる》の意味での「死」を遠くへ追いやり、ついには忘れ去ってしまったのだ。

 

植物が、地上と地下の両方で初めて一つの生命であるように

人間もまた、地上の身体(見えている肉体)と、地下の身体(見えない根)の

二つで一つの生命なのだろう。

 

根を引き抜けば、枯れてしまう。

根から切り離しても、茎から上は(そのうち)枯れてしまう。

 

見えている肉体の中に(重なって)見えない根があるところが

植物とはまた違う人間(動物も)の「在り方」なのだろうが

植物の「在り方」から学ぶところは大きい。

 

 

「生きる」の対義語は「死ぬ」ではなく

自分自身の根を抜くこと、根を切り離すこと、と言えるかもしれない。

これ、すなわち「かる(刈る、狩る、枯る)」であろう。

 

特に現代人は、己を刈り、己の生命を枯らしながら、

他人の生命までも狩ろうとしている気がする。

 

肉体は生きていても、《「死」を生きる》ことがわからなくなっているのだ。

 

「しぬ」が「死す」の意味に取って代わられ、「死ぬ」になってしまったとき

それはすでに始まっていて

特殊なナ行変格活用から、最も一般的な五段活用の動詞になったとき

決定的になったのかもしれない。

 

私たちは思い出すべきだろう。

「し」という音、「しぬ」という音を抽出して

「死」「死ぬ」に張り付いたイメージを取り除くのだ。

シ~ンとした、静かな場所、不動の場所に往く(往ぬ、還る)ことが

「しぬ」ことなのかもしれない。

 

2017/ 06/11

 


『古事記-序文』の中で気にかかっていたこと

前々から、古事記の序文で気にかかることがあり

ちゃんと読み返そうと思いつつ数年経ってしまっていた。

今日はふと、そのことを思い出し、古事記を本棚から抜き出して

パラパラとめくってみた。

若干、私の記憶違いもあって、気にかかっていたはずの箇所を見つけるのに

少し手間取ったが、全くの記憶違いというわけでもなく

私の記憶とは少しニュアンスは違ったものの

だいたいの「気にかかっていた箇所」を見つけたので、

今日はそのことについて書いておきたいと思う。

 

太安万侶は、古事記を書くに当たって、まず序文を記している。

(その文章からは、太安万侶の人柄が偲ばれるような思いがする。

おそらく彼は、非常に賢く、とびきり実直な男だったのではないかと。

まあ、そこは今から述べる内容とは無関係。)

 

古事記と言えば、読んだことのない人でも、その書き出しぐらいは聞いたことがあると思う。

「天地(アメツチ)初めて発(ヒラ)くる時に、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神。」

こういう出だしだ。

 

しかし、その前に太安万侶は、(それなりに長い)序文を書いていて

なぜ、今このようなことを自分が書くのかについて、かなり詳しく述べている。

そして、私がひっかかりを覚えていた箇所というのは、次のような形で序文の終わり近くに出てくる。

 

(天皇に「稗田阿礼が誦んだ旧辞を撰び記録して献上せよ」と言われたことに対して

謹んで詔の旨に添うよう、細部にまで注意して正しく書こうと思うが・・・

として、次のように続く)

 

「然れども、上古(イニシエ)の時、言(コト)と意(ココロ)と並朴(ミナスナオ)にして、文(フミ)を敷き句(コトバ)を構ふること、字には難し。已に訓(ヨミ)に因り述ぶれば、詞(コトバ)は心に逮(オヨバ)ず。全く音(コエ)を以ち連ぬれば、事の趣(オモブキ)更に長し。」

 

要するに、奈良時代が当時の現代だとして、その奈良時代と比べて、上古(いにしえ)の時代の言葉(どれくらい昔になるのか定かでない)は、言葉も意味も共に素直な国語であったから、それを今(奈良時代)の言葉に直して漢字で表記することは難しいし、すべてを訓みの字で現すと言葉の意味が充分に通じない。また、すべてを字音仮名で表記すると長くなり過ぎる(これもまた意味が充分に通じない)。

 

と、述べているのだ。

 

だから、あるときには一句の中に、音字と訓字を交えたり、あるときには一つの事柄をすべて訓字で記したり、文中の言葉や意味のわかりにくいところは注釈をつけて明らかにした・・・と言うのだ。

 

つまり、古事記で語る内容は、奈良時代にはもうすでに『いにしえ』のことであり、そこで使用されている言葉は、奈良時代(でさえ)では表現の難しいような『いにしえ』の言葉となっているのだ。

「言(コト)と意(ココロ)と並朴(ミナスナオ)にして」

いったい、どのような言葉だったのだろうか、想像もつかない。

 

ここが、私がずっと前にひっかかっていた箇所なのである。

古事記は、太安万侶が、並々ならぬ工夫、努力をしてあのような文章に仕上げたのだろう。

 

古事記の全文にざっと目を通すと、平安時代やそれ以降の古文に比べて、格段に読みやすいと感じる。その理由は、漢語がないということ、そして最大の理由は、助動詞の種類が少ないということだ。

(平安時代の古文でさえ読みにくいのに奈良時代なんて尚更・・と思う人は、一度古事記を読まれるとわかると思う。漢字かな混じりで、ふり仮名を適切に施してくれさえしていたら、本当に読みやすいこと請け合いだ。)

 

助動詞の種類と敬語が一気に増えて、文体も複雑になるのは平安以降のことだ。

(そこへ鎌倉や室町の時代には漢語がどんどん日本語に取り込まれていき、

私にはもはや辞書がなければワケワカラン状態になっていく)

 

と、話がそれたが、奈良時代の人でさえ「いにしえ」の言葉(言と意)は素直だったと言う、

そんな「いにしえ」の言葉の片鱗が、今もこの現代の日本語に残っているとしたなら

それは、言葉という形の奥底に隠れている構造か、外に現れた音そのものの中だろうか・・・

と、思ってみたりする。

 

古事記でよく見かける助動詞は、やはり「き」「り」「す」「む」「つ」「ぬ」だったということも、付け加えておく。

2017/1/31

 


「そ」

うちの地方では、私がまだ幼かった頃、人に何か物を差し出すとき

「そ」という言葉を添えた。

 

「どうぞ」ぐらいの意味合いなのだが

近しい間柄なら、さしずめ「はい」ぐらいの感じかもしれない。

 

関西では、一音の言葉はたいてい母音部分を伸ばして発音することが多いが

(例えば、目は「めえ」、木は「きい」という風に)

この「そ」は、あくまで「そ」であり、「そお」ではない。

 

顔の汗を手でぬぐっている人に、「そ」と言いながら手ぬぐい(タオル)を差し出す・・・

喉が渇いていそうな人に、「そ」と言いながらお茶を注いだ湯のみを差し出す・・・

そんなシチュエーションが、「そ」にはよく似合う。

 

今では、もう「そ」を使う人も少なくなって

お年寄りと話をしない限り、耳にすることもない。

若い人たちは、そんな言葉を知りもしないだろう。

 

まるで動植物の絶滅危惧種のように、保護したり保存したりするのは

この場合、ちょっと違うようにも思うが

廃れて消えていく言葉があるなら、その言葉の裏側というか内側というか

その言葉が持つ時代を含めた人間の生活空間が、一つ消えていくということなのかもしれない。

 

「そ」が消えていくとき、相手を思いやって差し出す行為の中の

在る部分(それは西洋的な、あるいは現代的な親切ではなくて)、

どちらかというと日本的、それも関西の田舎の土着の精神の一部、

飾らない粗野のままの親切心が細く薄くなっていくことを意味するのだろうか。

 

他人に親切にするとき、どこかしら恥ずかしいような、照れるような気持ちを持つとすれば

「そ」が消えていくことと、何かしら関係があるかもしれない・・などと思う。

 2016/8/14

 


袖振り合うも

「袖振り合うも多生(他生)の縁」という諺がある。

『多生』の部分は、『他生』と書く場合もあるようだが、

どちらも前世での縁というような意味であり

解釈の上で基本的には大差ない。

(『多少』と書くと、まるで意味が違ってくるし、諺としては間違いになる。)

 

『多生』とは、六道(天道、 人間道、修羅道、 畜生道、餓鬼道、 地獄道)を何度も輪廻して生まれ変わること。

だから、この諺の意味は

「一生を何度も繰り返すうち(多生)に、どこかで縁があり

どこでどんな縁があったかは、その時点での現人生ではわからないながらも

全ての縁は偶然ではなく、深い因縁の元で出会うのだから、どんな些細に見える縁も大切にしなさい。」・・・おおよそこれが一般的な意味だろう。

『他生』も、前世(前々世・・・あるいは来世)での生涯を指し、

この字の場合も上記と同様の意味合いで使われている。

 

『多少の縁』という間違った字が使われやすいのには、理由があると思う。

それは、「袖振り合う」のが「些細なこと」だという誤った認識からきている気がする。

実際、「袖振り合う」のところが「袖すり合う」として広まってもいる。

 

上にも記した

「どんな些細に見える(袖をすり合う程度の)縁も大事にしなさい」という一般的な解釈には

すでに、『多生(他生)の縁』を『多少の縁』に置き換えてしまいそうになる

ある種の勘違いが潜在している気がする。

 

縁というものは、「ほんのちょっと」だろうが、「多大な影響」だろうが

同等に働く基本的な(裏の)システムのようなものと、私なんかは思っている。

 

この諺が生まれた当初、そしてある程度広まり定着していった頃というのがいつごろであるかは、確定できないが

 

室町時代の御伽草子『蛤の草紙』に

「なさけなき人かな。物の行ゑをよく聞き給え。袖のふり合わせも他生の縁と聞くぞかし」

とあり、ここでは『袖のふり合わせ』となっているのに対し

時代が下って、江戸初期の仮名草子『竹斎』(巻上)には

「一樹の蔭(かげ)、一河(いちが)の流れ、道行き袖の触れ合わせも、五百生の機縁」

とあり、『袖の触れ合わせ』・・・つまり『袖すり合う』の原型とも言えるような言い回しに変化している。『振る』のでなく『触れる』のだから、互いの袖が触れて『すり合う』のイメージになる。

しかし、並列して挙げられている『一樹の陰』『一河の流れ』には、「些細な」の意味合いは見られず、同列の『袖の触れ合わせ』にも「些細な」の意味合いはまだ少いように感じる。

 

それが、時代を経て現代に至っては「袖をすり合う程度の些細な縁」という解釈にまで落ちてしまった。

 

「袖を振る」と「袖が触れる(摺れる)」は、全く別物だと言いたいのだが

うまく伝わっているだろうか?・・・(はなはだ心もとないw)

 

古来日本語の「袖を振る」には、相手の魂を呼び寄せるというような呪術めいた(呪術そのものかもしれない)意味合いが色濃くあり、そのことを知っていたなら、そこに「些細な」というイメージは決して生じてこないと思うのだ。

 

「どんな人や物事との出会いも、すべて深い因縁の元に起こっていることである」

という解釈を、「些細なことにも意味がある」とか「だから大切に」とする教訓は

まあ、それはそれでいいかなとは思うけれど、わたし的には、イマヒトツ。

 

むしろ、

「どんな重要と思える出会いも、些細と思える出会いも、すべてお任せ状態でいいよね」

と言いたい私には、

「まあ、人生いろいろだし、

袖を振り合うような(互いにひかれあう等々、他にも色々)ことも

どうしようもなくそうなっちゃったことだらけなんだから

ぜ~んぶ、自我の私には見えない因果の応報で起きている縁ってことを了解して

そのまんま、OK!って、YES!って、GOサイン出して行こう」

みたいな解釈が、今のところ、気に入ってる。

2015/05/15