ただいま

祝福を

たくさんの言葉たちが

これまでとは 全く違う意味に生まれ変わって 

祝福のために 現れた

 

しあわせ

よろこび

 

聖霊

そして、奇跡

2014/6/5 


不思議なことに

不思議なことに

わたしは ときどき

世界の見方を忘れていることがある

心は暗く沈んで 体も重くなるから

忘れているってことに すぐに気がつく

「ああ、わたしは 世界に暗闇を見ているのだなあ」と思う

 

そんな時は きまって

(それとなく偶然を装って) 

目にとびこんでくる風景や

耳に 入ってくる 音が

やさしく せつなく 大切なことを語りかけてくれて

 

わたしは 思い出す

 

わたしにとって「思い出す」とは

過去を振り返ることでも

前世を知ることでもなく

「ありがとう」から世界をみること

 

どうして忘れていたのか わからないくらい

心も体も 軽く 透明になる

「思い出す」とは そういうこと

「ありがとう」とは そういうこと

2014/6/7 


A Thousand Years

千年ものあいだ

私は ずっと死んでいたのも同じ

「死」だと思っていたものの中に

本当の生命の泉があって

そこから 湧きだすエナジーが

私たちを本当の「死」から 救い続け

あるいは「眠り」を通して 生命をつないできた

(ときには 息も絶え絶えに なりながら)

 

生きていると思っていたものが、実は「死」であり

「死」だと思っていたものの中に 生命を見出すとき

千年という時間は、ゆらいで 消える

 

千年もの間 ずっと愛し続けていたのは

あなたもわたしも 同じ

沈んでいた「愛」が そこに浮上する

2014/6/8 


一期一会

たまたま 特急列車で 隣り合わせて座った女性が

私に向かって こう言った

「一期一会・・・」

はい?

あまりに唐突に出てきた その言葉に

意味はわかりながらも 私は少々戸惑った

 

全く面識のない、今日初めて会う人が

あいさつの言葉の前に

いや、あいさつの言葉の代わりに そう言ったものだから

 

そのあと、彼女は

・・・自慢話を始めた

しばらく

「そうですか、そうなんですか」

と、相槌を打って聞いていた私だったが

途中で、なんだか面倒くさくなってきた

困ったな・・・とも思った

その瞬間に

私の隣に、「面倒くさくて困った人」が突如出現した

 

一期一会・・・

それもまた 一期一会

なんと言っても

彼女自身が そう言ったのだから

 

意味があると思う世界からは、どんな出会いも意味があり

意味がないと思う世界からは、どんな出会いも意味がない

 

どんな意味があるにせよ ないにせよ

すべての出会いは

「一期一会」

2014/6/9 


葡萄

君は 一房の葡萄を手にして

少し濡れた指先で その一粒をつまみとる

 

葡萄には 秘密がつまっている

一粒の中に はちきれんばかりに つまった秘密

 

君は その秘密を 今まさに口に入れようとして

ボクを見る

 

ボクは微笑む

君にとっても ボクにとっても

それが まちがいなく 葡萄であることが

まず最初の 秘密

 

口に含んだ瞬間の 甘酸っぱい葡萄の汁と

プルンとした感触が

第二の秘密

 

そして

君の喉を通ってからの 葡萄のハタラキ

君の肉体の中で 葡萄が起こすハタラキが

第三の秘密

 

ああ、それからあとのことは

誰もが 深い意識の底で 知っている

本当の 秘密

 

知っているのに 知らない秘密

2014/6/12 


Nearer,My God,to Thee

「主よ 御許に近づかん(しゅよ みもとにちかづかん)」

という賛美歌がある。

英語では・・・ "Nearer, My God, to Thee"

Theeとは、古い英語で「you」のこと

つまり、あなた・・・古い言葉らしく「汝(なんじ)」と言ったほうがいいかもしれない。

「我が神よ、汝の元に近づこう」

そのような意味だろうか。

 

しかし、ここで「GOD(神)」と「THEE(汝)」を

私たちが普段使って(知って)いる意味のままで考えると

「神」は「汝」と呼びうる、誰か特定の人物(像)になってしまう。

 

私たちが肉体の死を迎えたあとに出会える「崇高な存在」

この世を創造した「偉大なる存在」

一つのイメージを持たされた 男性像としての「GOD(神)」・・・

 

私には、そのような「神」のイメージはない。

かといって

多神教的な「神」のイメージもない。

あらゆる宗教的「神」というものに 偶像を見てしまうものだから。

 

「神」も「汝」も、偶像を見ているあいだは

はてしなく遠い存在だろう。

偶像でない「真実」があると知った今でも

さえぎる心がある限り、「神」は遠い

そして「汝」は、影さえ見えない。

 2014/6/16


“it”ではなく、“you”としての「物」と「者」

「人を物みたいに扱うな!」

などと言ってご立腹の人を見かけたことがあるのだけど

多分

そうやって怒った人も、怒らせた人も

物を人のように感じて、物と接する経験が

これまで なかったのかもしれない。

物が命を持つことを 知らないのかもしれない。

 

「相棒」あるいは「親友」

と、呼びたくなる物との出会いが

なかったのかもしれない。

関係を築いていける物の存在が 見えないだけかもしれない。

2014/7/8 


猫のひたい

猫のひたいに KISS をするとき

口紅は いらない

どんな演出も 邪魔なだけ

 

三角お耳を

後ろに 反らして

「どうぞ」

って感じで、待っている

 

かるく 目を閉じて

くちびるを受ける 猫のひたい

2014/7/10


「見ることそのものが“光”である」

 

この言葉に、初めて接したとき

確か、意味がよくわからない・・・と思った

そう、確か・・・13、4年ぐらい前

 

 

でも、今は

そう思うことが、あまりにも普通で、自然で、当たり前になっていて

いつ、そんな風に思うようになったのか

よく思い出せない

 

最近だった気もするし

ずーっと昔から知ってた気もする

そんなはずは ないのだけれど

 

 

    光は、秒速30万㎞で進むとか

    アンドロメダまで 230万光年で

    光に乗っても230万年かかるんだ・・・

    なんて、信じられるかい?

    君は、一瞬で

    カシオペアのすぐ横に、アンドロメダを見つけるはずなんだがな

 

    光速度って

    横から見た場合について語ってるだけじゃないか

    客観的っていうかさ

   

    秒速30万kmで進む光なんて

    本当に君の瞳で捕えることができるかい?

    光速度を超える速さがないって言うのはさ

    当たり前のことだよね

    だってさ、

    君のまなざしは・・・

    主観としての、観察者としての君のまなざしはね

    すでに「光」そのものとなっている

    だから、アンドロメダを見るのに 230万年もかかりはしない

    いかなる距離も幻想だ

    遠いも近いも、錯覚さ

    君と君の世界には、どんな物理的な距離も存在しない

    君は、物の手前になんかいない

   

    君のまなざしこそが 光なんだから

2014/7/15


あなたの中の川は流れる

あなたの中に

一筋の川が 流れている

 

あなたが 喜ぶとき

川面は 宝石のように きらめき

歓びにゆれる

 

あなたの中に

ずっと 流れ続ける川は

時間の中に とけ出して 音楽になる

だから

音楽の元は

あなたの中の 川の流れ 

2014/7/17 


救われるべきものは・・・

十数年前のある日

数冊の本の中で出会った言葉たちに

私はドギモを抜かれ、全身がゆさぶられて

細かく振動する肉体の 奥深くで

心もまた、これまでに経験したことがないほど大きくゆさぶられた

 

その言葉たちとは、まぎれもなく日本語で

もちろん、そのほとんどは 知っている言葉ばかりだったが

それらの意味するところが、どうやら地上のものとは思えない 美しさと力強さ

そして、完璧な「真」によって支えられていると、直感した

 

しかし、悲しいかな

私の脳内にある言語体系は、見事に地上の概念で覆い尽くされていたから

直感を、言語的には愚か、概念としてさえも捕えることは不可能だった

 

私は切望した

「知りたい」

「わかりたい」

「その世界を、見たい(感覚化したい)」と

 

たとえば、こんな一文・・・

「救われるべきは、魂ではなく物質の方なのだ」

 

知りたいと切に願うのは

もともと知っていたのに、忘れてしまっているからなのだと思う

思い出したくて仕方ないのだ

その片鱗に触れただけでも、懐かしさに涙がこみあげてくる

全貌が見たい

還りたい・・・

 

還る?・・・どこへ?

ここじゃないところ、元いたところ

「必ずそこに辿りつけるはず」

私はそれを、既成概念の中に根拠を見つけられないにも関わらず 

(だからこそ)確信していた

最初の一歩をどう出してよいのかも わからないままに

 

十年以上の歳月が過ぎ

ふと気が付いた時、私は自分が いつしか帰路についていることを知った

先は 長いが・・・

 

来る日も 来る日も

人と関わり、物と関わり、言葉を放ちながら

視線だけは まっすぐ、行きたい方向を目指す

 

超常的な能力を求める心を、私は嫌悪した

自分の中にも、他人の中にも

(自分が見ている他人と自分自身が同じであることは、このことからも自明)

超常的な能力は、それそのものに問題があるわけではなく

それを求める心に問題がある(困ったもんだ)

 

能力の誇示

自己顕示欲に支配された知識の誇示は

サイアクだ

儀式も呪文も、せっかく持って生まれた感覚器官を曇らせるだけ

まなざしは、確かに真実を見ているというのに

 

救われるべきは、やはり物質のほうであったのだ

 

道のりは 遠い

しかし、踏みしめる道に 間違いなどあるはずもない

この世での間違いは、正すためにあるようなものだから

2014/7/20