おかえり

Someone To Watch Over Me

太陽が すっかり沈み

夕焼けの名残りも 消えたころ

 

丘の上の草原に 風が吹く

立っているのは、枝を大きく広げた 一本の木だけ

 

一瞬

木の下に、誰かの影が 見えた気がした

気配だけが 風に揺れる

 

私は、ほんの少し眩暈をおぼえながら

立ち上がる

 

目をこらせば

木に立てかけた ギターが 

まるで 私を見守ってくれる誰かのように

静かに 

月の光にてらされて

ただ 立っている

いまにも 歌いだしそうな 星たちと一緒に

私が近づくのを 待っているのか

手にとって、弦を爪弾くのを 待っているのか

 

私を見守ってくれる誰かのように 

2014/7/21


虹のむこうに

夏の到来を

気象庁の「梅雨明け宣言」に任せるなんて

もったいないことだ

 

情報の使い方を 間違っている

順番を 取り違えている

方向が 逆なんだ

そんな例なら、はいて捨てるほどある

 

していいことと 悪いことを

法律に尋ねなければならないなんて

そんな風に 考えるようになったのは

いつのことからだろう

 

味覚が、

「甘味」「辛味」「酸味」「苦味」「渋味」「うま味」に集約されて

食べ物が、栄養素や摂取カロリーなどという「数値」にまで還元されたのには

深くてお粗末な理由がある

 

客観とは何かを 考えよう

主軸を失った「観点」には、実相を観る力はない

 

「自分を信じろ」というフレーズを 一人歩きさせてはならない

その意味するところの大半は

「感覚を取り戻せ」ということなのだ

 

自らを世界から切り離しておいて

そのうえで 世界を救おう、地球を救おうなどと言うのは

根本的に、出発点が違う

君自身と分離などしてはいない世界を

見つけることが 先決だ

 

 

まずは

夏の到来を

全身で 感じるところから 始めようではないか

 

夏そのものである君を 味わおうではないか

2014/7/22 


わたしのくうかん

過去から未来へと流れる 直線上の時間を

私たちは 当たり前のように受け入れてきた

時間は誰にも平等だというふうに

その中でどう充実して生きるかが、個人の選択なのだというふうに

 

さて

ちょっと考えればわかることだが

自分が感覚化している時間は

過去から未来に流れてなどいない

むしろ、その直線に垂直に突き刺さるように

中身をふくよかに感じながら、時間を受け入れている

そう、個人に任された「充実させうる時間」のほうだ

 

それを「主観的時間」と呼ぶなら

他者と共有する平等な時間は「客観的時間」と呼ぶことができるだろう

 

退屈な時間は長く感じられ、楽しい時間はあっという間に過ぎ去るが

振り返ったとき

それが逆転していることは、よく知られている

自分の内部・・・つまり記憶の一部となった経験においては

退屈だった時間は圧縮されて小さくなり

楽しかった時間の方が長く、あるいは重み、あるいは広がり

あるいは味わいをもって感じられるということだ

主観的(経験的)時間は、客観的時間とは無縁の場所にある

大事なことは、

「生きている実感は、主観的時間のほうにしかない」という事実だ

 

こう考えることは、たいして難しいことではない

誰もが、ふだん体験していることだから

 

しかし、空間に関してはどうだろう?

空間も、時間と同様に

「客観的空間」と「主観的空間」があるとしても不思議ではないのに

「主観的空間」は「客観的空間」に覆われて、見えなくなっている

 

おそらく、私たちが「空間」とふだん何気に呼んでいるのは「客観的空間」の方だ

物があふれ、自然に囲まれ、多くの動植物、そして人間がいる場所

しかし、その場所を「客観的(だれもが共有している)空間」として感じているなら

そこに本当の「生」はないだろう

生きている実感は、やはり「主観的空間」のほうにしか生まれない

 

私たちは、物を見ながら物を観ていなかった

自然に囲まれながら、自然を包んでいなかった

人間と出会いながら、他者に出会っていなかった

 

対象ではなく、もう一人の自分としての

「物」「自然」「あなた」に

出会うことは、可能だ

「わたしの空間」を発見しさえすれば・・・

 

その時、私たちは

名前という服を 一枚脱ぐことができるだろう

2014/7/24 


るーと3

モノの内部から

モノそのものを見ることはできない

 

果てしないと思われている 宇宙という広がりも

(いかに広大であると仮定したところで)

手に取れる 小さな石と同じ

尺度の適用可能な「モノ」であることに変わりない

 

我々が宇宙の中にいるとすれば

それは、「モノ」の内部にいることに他ならない

 

我々は、「モノ」という観念の内部にいるのだ

(モノとは、かさばりを持ち、大きさがあり、比較ができるもののことだ)

 

「モノ」の内部に、光が入ることはない

どんな真言を唱えようが、どういう言葉で神に祈ろうが

「モノ」の内部に、光が差し込む道理はない

 

物を見ながら「モノ」を見ていないというのは、そういうことだ

我々自身が「光」であるためには

「モノ」の外部に出る必要があるということだ

 

さて、「モノ」の外部とは

尺度概念の外という意味

そこには、当然ながら

我々が慣れ親しんだ「時間」も「空間」もない

ただ、「永遠」へと続く道がある

 

時間や 時間を伴う空間とは 無縁の場所にある「永遠」は

どこか遠いところにあるのではない

「モノ」の外部を見つけたとき、そこはもう「永遠」への入り口

 

「モノ」の外部へと さらにその外部へと

ひたすら ルート3を辿れ

 

 

イデア比・・・1:√3

2014/7/25 


しあわせの由来

何も特別なことが起きたわけでもないのに

しあわせを見つけることがある

しあわせの中にいることを知ることがある

 

しあわせの由来は、どこにあるのか

 

何か、理由があって得た幸福感は、おそらく勘違い

 

条件によって、時と場合によって 移ろいゆく幸福感が

求めるに値する「しあわせ」かどうか

考えてみるのも 悪くない

 

   幸せになるためにどうしたらいいか・・・と

   お金

   健康

   名誉などなど

   を 手に入れるために

   求めて、求めて、頑張って

 

   しあわせに「理由」が必要だと思って

   その「理由」を作るために

   求めて、求めて、頑張って・・・

 

しあわせに理由はないと知るだけで

いさぎよくなれる

しあわせには、ただ由来があるだけ

その由来が、現実に影を落としているだけ

2014/7/26 


内は外

変わりたいと

無理して、頑張って


変わりたくないと

しがみついて


わがままっていえば わがままだけど

同じ平面上で くるくる回るメリーゴーランドのように

ただ移り変わっていく はかない景色に

一喜一憂

わがままな気持ちというヤツに 翻弄されているのに

野放しにしているのも

また、自分



そんな「中」で

変わるも 変わらないも

違いはない

幻灯機の「外」に 自分はいると気づきさえすれば



本当に「かわらないもの」は

心の内側・・・それは、本当の「外」にある

2014/8/2



YESのちから

「そうではない」

と、NOをつきつけるのは たやすいが

それでは

「こうである」

が 示せない


「こうである」

と、示し続けるためには 

決して たやすくはない 意思が 必要だ


それでも

「こうである」

の中に、NOが含まれていると

方向が相殺されて、チカラは生まれない


「こうである」が

すべて YESで満ち満ちたとき

わたしたちは、心から立ち上がることができる


Aでもなく、Bでもない

AとBの線上に 垂直に下りてくる視線を見つけたとき

AとBの中点から、最初の自由が 立ち上がる


NOが 分裂、分離して 流れをせき止め、分断して 離散させるのに対し

YES は 連鎖し、久遠に続く回廊へと いざなう


それが

YES!のチカラ

肯定力

2014/8/7



What a dream I had!

夢から さめたときの

静かで しあわせな しろい光を

思い出すときは いつでも

無音の

音になる以前の

しあわせな メロディーの 原型が

時の「間」に もれだして

それは、ほんとうに しあわせな 木漏れ日のように

やさしく やさしく 降り注ぐ

2014/8/7


聞こえない音

あなた や 私 の 物語のなかに

普遍性は かくれていて  

一般論の中に 普遍性はない


それは

素晴らしい映画や小説には、個人を引き込むチカラがあるのに

ためになるはずの説法が、ときに退屈なあくびをさそうのに 似ている


社会生活を送るうえで 必要かつ大切な常識も

それらを取りまとめているものが、実は得体の知れない「世間」であり

ちょうど

平均点などという点数が この世のどこにも実在しないように

「世間」もまた、目安でしかないことを 肝に命ずべきかもしれない


見える風景は 見えないものに触れていて

聞こえる音は 聞こえない音に触れている


感動する風景や音楽は

おそらく、わたしたちに

見えない風景、聞こえない音に 触れさせてくれるのだ


コトバもまた、

意味以前の原型に わたしたちを連れ戻すチカラを 奥深くに持っている


わたしたちが 感動するとき

風景や、音楽や、コトバの意味直接ではなく

その裏側とでもいうか

見えない、聞こえない場所で 心がふるえている


何かに癒されたとしたなら

その「何か」は、普遍性を持った「なにものか」であり

それは、きわめて個人的な、誰もが保持している「物語」なのだと思う

2014/8/9


Alon Again Naturally

自分は一人だということ

徹底的に一人だということ


それを超えたところにしか、他者はいないということ


鏡に映る像を 相手にしないということ

鏡を割るためのツルギを 持つということ


その先で、他者と出会うということ


自分一人で目覚めるのではないということと

この夢の世界に 自分しかいないということは

全く矛盾しない


自然に

ごく自然に

2014/8/15


はるもにあ

わたし は あなた の中に 

あなた は わたし の中に

分身を 送り込んだ


「私」を「私」だと思っている「私」

「君」を「君」だと思っている「私」

本当は

あなた に包まれている わたし の分身


「私」を「君」だと思っている「君」

「君」を「自分」だと思っている「君」

本当は

わたし が包んでいる あなた の分身

2014/8/18


「離れる」という出来事

「離れる」という出来事は

心の中で 起きている


ケンカ別れをしたからといって

心に執着があれば まだ離れてはいない


そのまま

何も変わらず 付き合いが続いていても

心の執着が取れれば もうすでに離れている


「離れる」は、はがれること

自我の投影の膜が はがれること


経験的他者は、いつでも自我の投影であって

ほんとうの他者では ない


経験的他者と 離れることは

本当の他者に 近づくことでもある

広がることでもある

また一つ 自由になることでもある

2014/8/19


言葉以上に

パワースポットを 求め歩かなくていい

腕のいいヒ-ラーを 探し歩かなくていい


私たちは だれでも 

この世に生まれ出て この世を去る その時まで

一歩たりとも 動いたことなど ないのだから

動いているのは 世界の方だ


わたしのいるところが パワースポットになるだけ

わたしだけが わたし自身を癒すことのできる ヒーラーなのだと

知るには


外に向けた目を 静かに閉じて

何も無いと思っていた空間が 生命で満たされているのを

目撃しなければならない


たくさんの情動で埋め尽くされた心に 空白を作って

生命が満ち満ちている、そんな空間を 生み出さなければならない


言葉にした途端、あいまいになるから

言葉を、風だと思うようにしよう

言葉以上に、大切なことを伝えてくれる 風だと

思うようにしよう

2014/8/20


「if」の世界

もしも・・・で、埋め尽くされているのが

この世界


私が なりたくて なれなかった「if」の私

私が なったらどうしよう と怖れて、ならずにすんだ「if」の私

私が なったかもしれないけど 結果的にならなかった「if」の私

私が 思いも付かない姿で現れている「if」の私


そんな「if」の私が アナタとなって

巡り会ったり、まだ会っていなかったりするのが

この世界

それは、「夢」と呼ぶに ふさわしい


  本当の「あなた」と 本当の「わたし」は

  関係を裏返しにして いつも一緒にいる

  前を見たら 最も遠いところにいるけれど

  背中合わせの 

  ひとつの存在の表と裏 


私がならなかった「私」が、アナタ なんだ

そんな、ifとしての「私」で、私の世界はうまっている

ifの「私」は、すべて アナタ として認識されるようにできていて

そのことに気付いて それを見ている私は、もう私でさえない

2014/8/25


Songbird

私は、私以外の全てによって 支えられている


私の内部は、私の外部の全てによって 支えられ

私の外部は、私の内部の全体性によって 支えられている


私たちの身体は 内部と外部の結び目として

かくも美しく 存在の光を放っている


誰が、この身体を攻撃できようか

肉体であれ、心であれ


無関心でいることなど できるはずもない


この事実を知ったならば

2014/8/31


てばなす

なにより真っ先に 手放すべきものは 意図かもしれない

と 思う


最近、意図しないところに

人との交わりの 面白さ、あたたかさ、歓びが

次々と 起きたものだから




無意識にしてしまっている 期待や不安も また 

意図の変形なんだろう

そんなところに心を砕くのは、無意味で無駄だ


結局は

見えないもの(わかるはずのないこと)は 

見えないくていいし、わからなくていい


深く暗い井戸の底を覗くより

こんこんと わきだす泉に 手をさしのべよう


安らぎと静けさの中で

互いの 意図しない意思が 交わることを

よろこぼう

2014/9/1