仮名序の謎

「やまとうた」が言の葉になった

日本最古の勅撰和歌集として有名な『古今和歌集』には

「仮名序」と「真名序」の二つの序文があるのですが

「仮名序」は紀貫之が、「真名序」は紀淑望が書いたとされています。

 

(注:「仮名序」は仮名で書かれた序文、「真名序」は漢文で書かれた序文)

 

ついでに言うと、『古今和歌集』の撰者四人(紀友則、紀貫之、凡河内射恒、壬生忠岑)のうち

初め紀友則が撰者の筆頭でしたが、編纂途中で死亡したため

そのあとを紀貫之が務め、撰者の中心となったと伝えられます。

(貫之、淑望、友則ともに紀氏。)

 

「仮名序」は最初の本格的な歌論と言われているのですが

ここには色々と謎も多く、面白い説がたくさん出ています。

「真名序」との明らかな食い違いや

わざととしか思えないほどのあからさまな矛盾があり

書き間違い(あるいは写本時の写し間違い)説を採らない限り

何か意図があってそうしているに違いないと思わせるところが多分にあり

そこが、今でも「謎に挑戦する」人々の気持ちを動かしているようです。

 

「古今伝授」なんていう『古今和歌集』に関する秘説が

秘伝として連綿と伝え続けられているという話もありますし(コレは本当です)

検索すると、実に面白そうな仮説もわんさか出てきます。

まあ、こういう話は歴史ミステリー好きにはたまらなく興味をそそられるところですが

これから書こうとしていることは、その類の話ではありませんので

そちらに興味をもたれた方は、是非ご自分で検索なさってください。

面白い拾い物に当たるかもしれません。

 

 

さて、前置きが長くなってしまいましたが

最近「仮名序」の冒頭部分をぼんやり眺めていて

私自身が「あれ?」と気になったことについて

これから書いてみたいと思います。

 

以下

赤字は仮名序からの引用

太字は私、如月がつけています。

 

 

 

「やまとうたは、人の心を種として、万(よろづ)の言の葉とぞなれりける 」

 

この冒頭部分は有名なので、ご存知の方も多いことでしょう。

 

「日本の和歌は、人の心を元として多くの(いろんな)言葉として現れたものである」

 

一般にはそのような意味として訳されています。

私も、長い間ずっとそう捉えてきました。

しかし、なにげなく原文を眺めていたとき、「あれ?」と思ったのです。

 

もっと素直に、そのまま読んでみたら、今までの意味と違って見えたのです。

 

「やまとの歌は、人の心を種として、あらゆる言の葉となった」

 

どうでしょう・・・

こちらの方が、素直でごく自然な訳だと思うのですが。

そんな風に見えたとき、アリャリャ・・となりました。

 

「やまとうた」が「言の葉」となった?

つまり、「やまとうた」の方が「言の葉」より先にあったということになる。

なんだって?!

と思った次の瞬間に、いろんな謎が一気に解けた気がしました。

 

少しずつ紐解いてみますね。

 

まず、「やまとうた」=「和歌」という常識を頭からはずします。

次に、「人の心を種として」「言の葉」になった、その元の何かを「やまとうた」と呼んでいるのだと仮定します。

そうすると、「やまとうた」というものは、できあがった和歌のことではなく、ある種の音(振動のようなもの)と考えることができます。

 

そう考えると、

「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける」

のところも、日本人の感性として(鳥や蛙も歌っていると感じる)という意味ではなく

実際に、すべてのものが振動していることを言っているのではないかと思えてきます。

また、「万の言の葉とぞなれりける」が

普通の過去「なりける」や、断定+過去「なりにける」ではなく

「なれりける」(完了「り」+過去「ける」)となっているのも頷けたりします。

 

他にも

「このうた、あめつちのひらけはじまりける時より、いできにけり」

という部分について、古事記の冒頭部分

「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原に成りませる神の名(みな)は天の御中主の神。」・・・を彷彿とさせるところから

私はこれまで、「歌が天地の始まりの時からできた」などと、

なんと大げさな言い回しかと思っていたのですが

貫之にとっては別段大げさな表現なのではなく

(自分の知っている)事実を述べたに過ぎないのかもしれないと思うようになりました。

 

その歌は

「天の浮き橋の下にて、め神を神となりたまへる事を言へるうたなり」とも書かれていて

ここについても、古事記の記述と時間的に矛盾する(天の御中主からイザナミとイザナギ)の間に何代も神があるじゃないか)と思っていたのですが

そうではないということに気が付きました。

 

神世とは人の世(時空)の外の世界のことだ、と考えれば時間軸的な矛盾は発生しません。

つまり、神世には時間的な流れはなく

「順番」として現れているのは、(時間的順番ではなく)

階層的な構造としての順序だと考えればよいでしょう。

 

 

天地開闢の時に現れた神々と

そのとき生み出された七代の神々を簡単に記すと以下のようになります。

 

(画像はウィキペディアよりお借りしています。)

 

 

 

画像のリンク先

天地開闢(日本神話)-wikipedia 

 

こうして図を眺めてみると、仮名序の言葉には少しも違和感がありません。

天地開闢のときより、「うた(振動のようなもの)」が生じ

その歌は、神世七代のラストを飾る陰陽の神、つまりイザナミとイザナギが生じた事をいう歌だと言うのですから。

 

続けて

「しかあれども、世に伝はることは、ひさかたのあめにしては、したてる姫にはじまり~」

 

とあり、

「しかしながら(イザナギ・イザナミの歌が最初と言っても)

世に伝わっているのは、天では下照姫から始まった」とあります。

 

 (注:「下照姫」・・・大国主の娘で、和歌の元祖と言われる。和歌姫(若姫)。

           若日子の妻。小倉姫とも言われる。)

 

次に興味深いのは

この地上ではスサノオノミコトから歌が始まった・・・と述べられているところです。

 

「あらかねの土にては、すさのをのみことよりぞ、おこりける。」

 

「あらかねのつち」とは、下に凝り固まった土のことですから

この地上の意味には違いありませんが、ただ、上の話の流れから読み取ると

単なる地上ではなく、「時空としての地上」と捉えるのがよいかと思います。

 

「天では下照姫に始まり、地上ではスサノオから和歌が起こった・・・」

 

ここも時系列的に時間軸がグラグラしてしまうところです。

下照姫は大国主の娘で、大国主はスサノオの子孫。

何故、天では下照姫、地ではスサノオになるのでしょうか?

反対ではないのか?・・・とか、時代も全然合わないでしょ!

みたいなツッコミが出そうです。

 

が、これもポイントだけ押さえて

他の、時系列的常識を頭からはずして考えてみることにします。

 

一般的には・・・

・スサノオは天孫族でありながら、地に下って出雲系の祖となる。

・大国主は出雲系。その娘の下照姫も当然出雲系。

・下照という名前は、モロに天照(アマテラス)と対照的。

・大国主は、天孫族に国譲りをしたあと冥界(根の国)の主となる。

 

さあ、ここで浮かび上がってくるのは

『仮名序』では、出雲系の神である「下照姫」を「天」としていることです。

そしてスサノオを「人」としている・・・

天地がひっくり返っているのです。

 

「ちはやぶる神世には、うたの文字もさだまらず、すなほにして、事の心わきがたかりけらし。

人の世となりて、すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける。」

 

「神世の時代は文字(数)が明確に決まっておらず、素直で、どういう事を詠んだのかわかりにくかった。人の世となって、スサノオの命が最初に三十一文字の歌を詠んだ。」

ということなのですが

「は?・・・」って感じですよね。

いや・・・スサノオの命って、人ではなく神だし・・・みたいな。

おまけに、そのあとに「スサノオはアマテラスの兄だ」と書かれていて、またもや

「は?・・・弟でしょ!」と、突っ込みたくなるところですが

ここはワザと感が強いですね(笑)。

 

『仮名序』は、勅撰和歌集(しかも日本で最初の勅撰和歌集)の序文です。

まさか、そんな基本的な間違いを貫之が犯すとは考えられません。

写本時の写し間違いでもまずあり得ないと思うのですが・・・。

 

(注:勅撰和歌集・・・天皇(あるいは上皇)の命令で編纂された和歌集)

 

 

これらが意味するところは何でしょうか。

 

私たち(平安の時代も含めて)人間の考えている世界観は

ひっくり返っているという示唆かもしれません。

国譲りのあとの人間は、天孫族の価値観の世界に生きていると言えるかもしれません。

天照(アマテラス)を太陽神として崇めるような世界観。

しかし、そこには本当の「うた」の本質はないということです。

 

「やまとうた」という「言の葉」の本質は、神世(時空の外部)からすでにあり

下照姫という神(これも時空の外の存在)が

人間には理解しがたいものではありながらも、どこかでそれを保ち続けているのです。

 

人の世では、スサノオが八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した後

櫛灘姫との住まいを定めるときに詠んだ歌が

人間の音声としてはっきりわかる形でこの時空上に現れた

最初の歌ということなのでしょう。

 

「女と住みたまはむとて、いづもの国に宮づくりしたまふ時」に詠んだ歌・・・

これですね。

 ↓

「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣つくる その八重垣を」

(やくもたつ いづもやえがき つまごめに やえがきつくる そのやえがきを)

 

(私にとっては、もうジ~ンとくる大好きな歌です。これが日本の最初の歌というのがまた嬉しい。)

 

スサノオの八岐大蛇退治の意味するところは、これから私たち人間の世界で起こる

ハバ切り(幅の世界を切り、鏡を割って奥行の世界へと入っていく)のことだと捉えると

「八雲立つ~」の歌が更に味わい深くなる気がします。

 

 

『仮名序』は、この後、和歌についてたくさんの事柄を論じていくのですが

(全部で九つの章立てがあるが、貫之自身の章立てではないため、研究者によって若干違う。)

なかなか興味深いところや、明らかな矛盾点として突っ込みたくなるところ(それだけに、そこには何かが隠されているのではないかと勘ぐる場所)も多くあります。

 

そこには踏み込まず、最後の章(むすび)に触れてみることにします。

 

平安時代初期においてさえ、次のような状況であったというのがわかる一文があります。

 

「それ、まくらことば、春の花にほひ少なくして

 むなしき名のみ秋の夜の長きをかこてれば・・・略・・・」

 

うたが春の花のような美しさも乏しく

虚名ばかりで実のない歌ばかりがもてはやされるものだから・・・

 

だいたいこのような意味でしょうか。

 

自分たち自身のことも省み恥じながら、こう続けます。

 

「人まろなくなりたれど、うたのこと、とどまれるかな。」

 

(注:「人まろ」・・・柿本人麻呂。仮名序の中でも人麻呂の歌について論じている。)

 

「たとひ時うつり、ことさり、たのしび、かなしびゆきかふとも、このうたの文字あるをや。

あおやぎのいとたえず、松の葉の散りうせずして、まさきのかづら、長く伝はり、鳥のあと、久しくとどまれらば、うたのさまをも知り、ことの心を得たらむ人は、おほぞらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも。

 

最後を一気に長く引用してしまいましたが、著者貫之の切実さが伝わる気がします。

太字部分に注意してください。

 

「ことの心を得ようと思う人は、大空の月を見るように

太古の昔を仰いで、今を慕わないということはあるまい。」

 

 

・「ことの心」の「こと」とは何をさしているのでしょう?

 言の葉の「こと」であり、この事の「こと」。九十の「こと」。

 「こと」の本質は「生命の振動」かもしれない。

 

・「大空の太陽」ではなく「月」であることは何を意味するでしょう?

 「月」は「真実」の暗喩であったりもします。

 アマテラスが太陽、スサノオが地球とするなら、

 月であるツクヨミについて、最後に暗喩として触れたのかもしれません。

 

・「太古の昔」は、時間的な意味での昔ではないと思われます。

 「遠い昔」と「今」という対比ではなく

 「今」の中にある「永遠」を現しているように感じるのは

 私の勝手な妄想に過ぎないかもしれません。

 

 

 

紀氏は紀の国の出であり、下照姫は和歌姫と呼ばれ

紀の国=和歌山であることは、なにがしかの縁を物語っているようにも思われます。

紀氏である紀貫之、紀淑望、紀友則らが何をどこまで知っていて

どんなふうに後世に伝えようとしていたのか、秘伝として隠されてきたことより

もっと、その本質に近づきたいと思います。

「古今伝授」は確かに『古今和歌集』を読み解くための秘伝なのですが

なぜだか、紀氏ではなく藤原氏がそれを手中に納めているあたりに

政治的な権力闘争の影がちらついて、私は好きではありません。

大事な情報を隠すことで、それを知っている者が有利になる世界は

もう終わっていくのでしょう。

それを願って『仮名序』が書かれたようにも思えるのです。

皮肉にも、その願いを隠した者たちの意図は、これからことごとく破れていくでしょう。

 

 

 

言葉について考えているうち、『仮名序』がこれまでとはまるで違って見えてきたものを

いくらか書いてみました。全然的外れで嘲笑の種となるかもしれませんが

自分の覚書として、ここに記しておきます。

 

2017/9/27