あまのはごろも

葉月十五夜

月に還った かぐや姫

地上に縛られた 宮子姫

今宵 葉月の十五夜に

二人の姫を 偲ぶ


Moon And Sand/Keith Jarrett 

2014/9/8


Going Home

本当の家に還るというのは

ちょうど 朝の光の中で

ゆっくりと 夢から覚めるみたいに

おだやかに

かろやかに


目を開くと

微笑が 私を包んでいて

私も それに応えるように 自然に微笑んで・・・


家に還るというのは

そんな感じなのだと 思う

2014/9/10


枯葉の絨毯

天国に いながら それを忘れて

天国に 憧れる者たちよ

この世に 楽園を築きたいと 願う者たちよ

微かな違和感を 心の奥深くで 感じてはていないか


子どもたちに

緑ゆたかな自然を、清く流れる川を 残したいと思う 気持ちを 

天国への憧れに すりかえてはいないか


そこに 

ほんの小さなズレを 感じるだろう

その、ほんの小さなズレが

この世と天国を 切り離している


一度も 天国を出たことなどない者として

私たちは、みな

この世を 愛することができる

天国に いながらにして

この世を こよなく 愛することができるのだ


枯葉も、敷き詰めれば また 絨毯なり

2014/11/2 

 


会話(やりとり)

自分を わかってもらいたいとか

理解してほしいとか・・・

そういう思いを どれだけ強く持って 話をしても

言葉は 相手の身体を素通りしていく


まるで、3D映画の映像に 

手を触れようとしても   空をつかんでしまうように


私の前に見える 相手の肉体は、その人本来の姿ではないからだろう

相手の手前に自分がいると思う、その認識を改めなくてはいけない


それが幻想であるとか、投影であるとか

あっちでも こっちでもよく言われている通りで

よくできた 3D映画なのだと思う


自分自身もまた、その映画の中にはまり込んでしまえば

自分が、私という肉体の中にとじこめられているのと 同じ

私の位置が、私の肉体の位置と同一視されているということと 同じ


わかってほしい

理解されたい・・・

そういう思いは、多分「重い」


重力を生み出している なにものかと どこかでつながっている


重力のシバリから はずれるためにも

私は、「相手に理解されたい」も、「相手を理解したい」も

あっさり捨てようと 思った


わたしとあなたのあいだには、「理解」は必要ないのだ、きっと

「理解」しなくてはならないのは

わたしとあなたを結ぶ、今は見えなくなっている回路のほうなのだ、おそらく


もともと一つの わたしなるものに 「分かり合う」必要性は ないのだから


だから

いつでも 瞑想していようと思った

開いた目が、幻想だけを見ることのないように

何をするときも、しない時も

目を 自分の心に向けて開き、瞑想するときのように

世界を見ようと 思った


会話は、互いを「理解する」ためではなく

互いに、近づくために あるのがいい


肉体がふれあっていても すり抜けてしまう言葉もあるのなら

ふれることのできる 心を やりとりするのが いい

2014/11/7