家居のつきづきしく

何年前の正月だったか

とっても暖かく、気持ちのいいお天気の元日だった。

私は、それまで毎年当たり前のように行っていた初詣というものに

なんとなく気乗りがしなくて

こんなに気持ちのいい日に、人ごみの中にわざわざ入っていって

神社にお参りっていうのも、もったいない(?)ような気がしていた。


それでも毎年行っていたものだから、一応息子たちには声を掛けてみた。

息子たちの返事はこうだった。

「初詣か・・・行ってもいいけど、なんか、つまらん。」


確かに・・・。


そこで私は、ふと思い立った。

神社やお寺じゃないところで初詣したいなあ

そうだ!

川か海へ行こう!!

そうして、私は一人で歩いて川原へと向かった。


子どものころ、まるで自分の家の庭のようにして遊んだ川原・・・ではなく

そこよりもう少し上流の、今住んでいるところから、つい目と鼻の先にある

毎日見ている川原。


堤防を走る車の姿もほとんどなく、川は静かだった。

なんだか神聖な感じがした。


ざっ、ざっと、足もとの石を踏みしめながら歩く。

ふと、目を下にやると、小さな石が私を見ていた。

三角形の穴があいた、なんてことない普通の小石。

私は、その石を拾い上げた。

「吹いて」と、声がしたような気がして、私は小石を口にあてて息を吹きかけた。

ピ~っと、小さな音が鳴った。


川の水で石を洗い、何度も吹いてみた。

次第にキレイな音が鳴るようになった。

石笛(いわぶえ)というものがあるのは知っていたが

自分で吹いてみたのは、これが初めてだった。


川面には、白い鷺が何羽も見えて

空には龍の形の雲が、ゆうゆうと流れていた。

私はそっと、手を合わせた。


家に帰ると、息子たちが、どこに行っていたのかと聞く。

「川に、初詣に行って、石笛(いわぶえ)を拾ってきたよ。」

と、私は石を吹いてみせた。

♪ ピ~~~


「え~っ!そういう初詣だったら行きたかったなあ。」と言う。


それで、今度は息子たちと一緒に海に行くことにした。

穴あき石をたくさん拾って、一つずつ、どんな音が出るか確かめ

いい音が出る石を何個かポケットにつめた。

海鳴りを聞きながら、浜辺に寝転がって空をながめた。

そこでも、龍の形の雲が、青い空の海をゆうゆうと渡っていた。


兼好法師の『徒然草』に、こういう言葉がある。

「家居のつきづきしく あらまほしきこそ

仮の宿りとは思へど 興あるものなれ」


家居のつきづきしく・・・住まいというものが住む人にとって似つかわしく

あらまほしきこそ・・・そうあってほしい、理想的な(好ましい)のは

仮の宿り・・・この世が仮の住まいに過ぎないとわかってはいても

興あるものなれ・・・おもしろ味のあるものだ


家居、住まいというのは、実に自分の人生そのものを言うのだろうと思った。

家屋や庭は、その象徴のようなもの、外に現れたもの

肉体と似ているかもしれない。

象徴にこだわり、象徴を立派なものにしようとすると、

残念なことに、本当の贅沢から遠ざかるのだろう。


兼好法師は、この後に次のように続けている。

「よき人の のどやかに住みなしたる所は 

さし入りたる月の色も ひときは しみじみと見ゆるぞかし」


なんでもないと思っていた海や川や空や山も

別段広大でもなんでもない、目の前の小さなものごとも

果ては、何気に吸っている空気や、差し込む光まで

のどやかで、しみじみと味わえるのは

実は、とんでもなく贅沢なことなのだ。


ああ、こう書くと、何かが違っていく気がして仕方がない。

素晴らしい自然や普通の生活に感謝しなさいと言っているのではなくて・・・

本当は贅沢なことなのに、それに気付いていないと言っているのでもない。


私が、本当に贅沢だなあと思えるのは

のどやかで、しみじみ味わっているときのこと。

「のどやか」で「しみじみ」、それそのものに、贅沢さ(リッチな気分)を感じる。


2014/11/15