「万(よろづ)の言の葉」の謎

古今和歌集と万葉集のつながり

2013-05-02 09:52:51

 

 

 紀貫之が、古今和歌集の仮名序で

「やまと歌は、人の心を種として、よろづ(万)の言の葉とぞなれりける」

と記している事を、以前の記事に書きました。

 万の言の葉・・・から、万葉集を連想するのは、ごく自然な感じがしませんか?

実際、古今和歌集は、成立当時『続万葉集』とも呼ばれていたようですので、万葉集と古今和歌集の関係も、ただならぬものがあったと、つい私は妄想してしまいます。

 実は、通説とされる万葉集の成立と、古今和歌集仮名序における通説での解釈について、私はいくつかの引っかかりを感じているのです。

 少しずつ、その引っかかりをほどいてみたいと思います。

 

 先ず押さえておきたいのは、古今和歌集が最初の勅撰和歌集であった事。つまり天皇の命令で編纂されたという事ですね。

 これに対して、万葉集は、大伴家持(たった一人で編纂したわけではないでしょうが、少なくとも最終的な代表責任者だと思われます)が、天皇とは無関係で編纂している事。

 更に、万葉集には、有間皇子や大津皇子など、天皇に背いたという罪人(無実なのですが)の歌が、少なからず収められている事。大伴家持自身が、桓武天皇により無実の罪を着せられていた事・・・等が思い浮かびます。

 

 万葉集に収められている中で、最も有名な歌人は柿本人麿ではないでしょうか。宮廷歌人でありながら、その素性がよく分からない謎の人物でもあります。 

 梅原猛さんは、学会の出した通説をひっくり返し、柿本人麿は無実の罪で処刑されたのではないかという説を唱えました。この事の検証には、普通学会で有力視される『正史』(大本営発表ですか・・・)よりも、地方に残る伝説と、何より人麿自身の歌を丁寧に読み切る事を基本に置いています。ここでは詳しく触れませんが、私は梅原猛さんの説に、多大な共感を得ました。興味のある方は、梅原猛著『水底の歌』をご覧下さい。

 もしも、梅原さんの説が(100%と言わずとも、いくらか)正しいとすると、万葉集には、天皇に背いたとされる(無実の)罪人達の歌が、たくさん収められている事になります。

 そこで、一つ目の疑問が生まれます。

「なぜ、最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が、『万葉集』を意識して作られているか?」

 意識して・・・というのは、決して私の妄想だけではなく、成立当時『続万葉集』と呼ばれていた事や、万葉集に倣って20巻にしている事が、通説でも言われているのです。天皇に背いて処刑(自殺に追いやられた皇子もいる)された者達の鎮魂歌が、何故?

 

 もちろん、万葉集の歌全てが、無実の罪で死んだ者達の鎮魂歌だとは言いませんが、決して無視は出来ない数が含まれていると思うのです。

 そこで、次の疑問です。

 古今和歌集仮名序に、紀貫之はこう書いています。

「古(イニシヘ)よりかく伝はるうちにも、平城の御時よりぞ広まりにける。

・・・中略・・・かの御時に、正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける。

・・・中略・・・これよりさきの歌を集めてなむ、万葉集と名付けられたりける。」

 簡単に説明すると・・・古来よりこのように伝わった中でも、平城天皇(へいぜいてんのう)の時代に、特に世の中に広まった。その天皇の時代に、柿本人麿という者が歌の聖となった。これより前の歌を集めて、万葉集と名付けた。・・・となります。

 また、真名序(漢語で書かれた序文。今で言う、対外向けに英訳を付けるようなもんですか)には、次のように記されています。漢文は難しいので、現代語訳で紹介します。

「昔、平城天皇は臣下に命じて『万葉集』を撰進された。それから今まで、天皇の御代は十代、年数は百年を過ぎた。」

 いかがですか?引っかかりません?

 天皇の命令であれば、勅撰ですが、万葉集は勅撰ではありません。しかも、平城天皇は、平安時代の人。奈良時代に万葉集が出来ているのに?


万葉集成立の歴史的背景

 さて、この事を考えるには、歴史的な背景も述べておかなくてはなりません。

 平城(ヘイゼイ)天皇は、平安遷都した桓武天皇の息子です。桓武天皇には、弟の早良皇太子がいましたが、息子に在位を譲るには、弟早良が邪魔だったと考えられます。早良は既に(桓武と早良の父親によって)皇太子となっていましたから、かなりの強行作戦に出ないと、息子を天皇にはできません。

 その頃、桓武の側近、藤原種継が暗殺される事件が起こりました。暗殺を企てた一味の中に、早良がいると桓武は主張したのです。大伴家持は早良の側近でしたから、早良、家持共に罪人としたのです。

 早良は最後まで無実を主張し、食を絶って抗議しましたが、ついに死んでしまいます。家持の方は、実はこの時既に死んでいたのですが、罪人という事で、生前の官位を剥奪されました。

 しかし、です。この後、桓武の息子が病気になるのですね。陰陽師にみてもらうと『早良の祟り』と出ました。慌てて桓武は、憤死してしまっている早良に『崇道天皇』の称号を贈り、奉り上げるのですよ。まぁ、『祟り(タタリ)』と『崇道』の「崇」の字の似ている事・・・。

 そして、桓武の死後、家持も無罪が晴れて官位が戻ります。806年、平城天皇(桓武の息子)の即位の年です。

 

 さぁ、話を元に戻します。

 平城天皇の即位の時、大伴家持の無罪が公認されました。806年の事です。それから100年後、天皇の代がちょうど10代目、醍醐天皇の勅命で古今和歌集が編纂されます(905年)。真名序にある通りですね。

 ところが、仮名序(紀貫之が書いた)の方には、何やら謎めいた言葉があるのです。

曰く「平城天皇の御時に(万葉集が)広まった(?)」

曰く「その天皇の御時に、柿本人麿が歌聖であった(?)」

おかしいですよね。万葉集は大伴家持によって、既に編纂されていたし、平城天皇の時代に柿本人麿は生きていません(奈良時代の人ですよ)。

 そこで、学者さん達は考えました。平城の御時とは、へいぜい天皇の御代の事ではなく、平城京のあった奈良時代の事ではないかと。

 いやいや、それでは真名序との食い違いが出ます。貫之の書き間違い、もしくは後世に写本した人の写し間違いではないか、とかなんとか・・・。やれやれ。

 ここでは、書き(写し)間違い説を採用せず、そのまま読んで、じっくり考えてみましょう。

 万葉集は、大伴家持によって既に出来ていた・・・とします。しかし、家持が罪人とされていた為、世に出る事なく埋もれていた・・・と。家持の無罪公認と同時に、万葉集も認められた・・・と。

 

 そう考えると、謎が解ける気がします。

「万葉集には、(一部だとしても)天皇に反逆して罪人とされている者達の歌が含まれている。編纂に当たった大伴家持もまた、罪人とされていた。平城天皇の時に、家持の無罪が公認され、同時に万葉集も公認された。」

 その意味するところは、万葉集に収められた無実の者達の無罪も公認された・・・ということではないでしょうか。

 つまり、万葉集は平城天皇の勅命ではないが、平城天皇によって、日の目を浴びたという事です。

 そして、平城天皇の時に柿本人麿が歌聖であった・・・の意味は、おそらく、それまで罪人扱いだった柿本人麿も、無罪公認で歌聖となった・・・と考えればよいのではないでしょうか。なにも、平城天皇の時に柿本人麿が存在したとは書かれていないのですから。

 そういった事情の全てを、紀貫之は当然知っていたのかも知れません。

 醍醐天皇の勅命で古今和歌集の編纂に当たった紀友則と紀貫之ですが、案外、二人の方から醍醐天皇に、和歌集を作るよう、勧めたのかも知れません。ちょうど平城天皇の即位から100年後の事ですし、100周年記念として、真実を語り継ぎたいという意図もあったかと・・・。妄想ですが。


「平城」と「平成」

2013-05-02 15:00:36

 

 昭和から平成に移った年の事を、私はよく覚えています。年号が『平成』に決まった時、何だか落ち着かない気持ちになったものでした。

 物語『西国奇譚』(第一章)に書いたように、実際、あの時私は“時空震”を経験した気がしたものです。

 平城天皇の御代に起きた事は、一般には全く認められていませんが、私には、真実が明るみに出た、一つの形だったのではないかと思えます。

 そして今は、平城(ヘイゼイ)と字も読みもそっくりな平成の世(しかももう26年です)。

 それまでウソで塗り固められていた政治の裏側や、企業のズサンさが、次々と暴露され始めたのが平成に入ってからではないかと、ふと思うのです。

 これには、コンピューター(インターネット)の普及が一役(一役どころではないですね)買っていると思われますが、1989年という年は、色んな意味で大きな転換の年だったことは誰しも認めるところではないでしょうか(ベルリンの壁崩壊からソ連の解体へとつながり、バブル崩壊もありましたしね)。

 

 真実の追求は、偉い人(学者とか)に任せず、一般のフツー人、素人もどんどんやっていけばいいのではないでしょうか。ただし、条件がありますが・・・。

 それは、ルサンチマンに陥らない・・・ということ、自分の意識を常に冷静に観察しながら、被害者意識から出る攻撃や批難に終始しないということです。

 

 大本営発表を鵜呑みにせず、いろんな情報も一旦自分との響きを大切にしながら、自分の心から湧き出る種を、言葉にかえて発信できればいいな・・・と思っています。

 やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける・・・なのですね。